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2007年01月 アーカイブ



終結 喜びの再スタート

眼鏡をほとんど落としそうにして出て来られた医師が私に告げたのは「何処にもありません。調べられる限り、お腹を見ましたが癌は見つかりませんでした。痛みは癒着から来ているものです。」という事でした 私は自分の不信仰の罪を思い「主よ。見ないと信じないと言った事をお赦し下さい。けれども、そんな祈りにも答えて下さり、不信仰を憐れんで下さり、こんな形で癌からの開放を伝えて下さりありがとうございました。」と思わず叫んでいました。

 あの時から14年が過ぎようとしています。
伝道に行き詰まりを感じる度に、そんな私達をも生かして下さったのだから、主が私達でもお要りになるのだ。」と確信出来るのは、この経験があったからだと思います。

 神様は確かに生きておいでです。そして、私達の小さな信仰を支えて下さいます。それを少しでもおあかし出来たらと切に願っています。

試練を越えて Ⅴ

痛みは食べ物が通り難いために起こるようでした。
「癒された」と信じた主人の信仰はそれでも変わる事がありませんでした。
戦いは私の不信仰にありました。お腹が透明で「癌がない」のが見えたらどんなに良いだろうとさえ思えて来たのです。

「神様。私の不信仰を赦して下さい。見ないと信じない者を赦して下さい。でも、もう疲れました。主人が本当に癒されるているならその証拠を見せて下さい。」と祈ったのです。

それでも相変わらず、痛みはおさまらず結局、再入院・再手術という事になりました。
また辛い検査が始まりました。腸のレントゲンには糸のように細くなっている所が映し出されていました。
誰もが癌の再発を疑いました。結局、医師が始めに言われた「秋に再発。今年いっぱいの命」は的中したように思えました。
いよいよ2度目の手術になりました。

この頃、べサニー本部より一組の宣教師夫婦が送られて来ました。私にとってこの夫婦は大きな励ましとなりました。

手術が終わり、医師が私達に告げたのは・・・・・。

試練を越えて Ⅳ

手術後だんだん力を得て来た主人を見て、私はある日主人に本当の事を告げました。
すべて取れたと思っていた癌は、実は大きすぎて一部は残った事、また医師は再発もあり得ると言っているという事を。さすがに今年いっぱいの命とまでは、言う事が出来ませんでした。
その時から主人は神様に向かい直し、御心を問い始めたようでした。

 そんな時、ベサニー本部からブロッキー牧師が来て下さったのです。彼は飛行機の中で「雀の一羽も主のお許しなしには落ちる事がない」という、マタイ10:29を与えられておられて、癒しのためのお祈りを捧げて下さったのです。主人は、その癒しの祈りを受け取り、「自分が召されるのは今ではない。」と信仰を持って私に語ってくれました。私も、そのみことばにしがみつきました。

 入院して3ヶ月後、ようやく退院という事になりました。
説教も毎週ではなかったですが出来るようになりました。けれども時々強い痛みがあって、説教を中断し皆に祈ってもらって講壇に戻るという事もありました。
信徒の方々の配慮で、3週間の休暇を頂き、主人は近くにある、キャンプ場のバンガローを借りて、森の中を歩いたり、川辺で本を読んだりして過ごす事が出来ました。幸い、教会からそのキャンプ場までは車で30分ほどで行くことが出来ました。私はそこから教会に通う事が出来ました。
けれどその間にも、主人の痛みは続いていたのです。

試練を越えて Ⅲ

入院して一ヶ月が過ぎ、いよいよ手術の日を迎えました。
その日は朝から雨で、気持ちも沈みがちでしたが、駆けつけてくれた主人の両親と共に祈りの時を持ち、主人は平安のうちに、手術室に入って行きました。

 手術は二時間程で終わりました。
しばらくして家族が呼ばれ、主治医のお話を聞く事になりました。
「小指ほどのポリープと思われていたものは、実は悪性であった事。また、それは直径8cmもある腫瘍で腸管の外に出来ていて、腸壁を破っていた事。そして、それが膀胱まで根のように広がっていて、全てを取り去る事が出来なかった事。」が告げられ、「秋には再発し、今年いっぱい持つか解らない。」と、全く絶望的でした。
でも、主治医の説明を聞きながら、「神様。尚あなたは生きていらっしゃいますよね?」と心は叫んでいました。

 しばらくして、麻酔から覚めた主人は「手術はどうだったか?」と聞きました。
私はポリープと思われていたものは、悪性の癌である事とそれは取り去られた事だけを伝えました。
主人は「感謝やな。」と泣いていました。

 それから始まる一年間は私にとって戦いでした。

試練を越えて Ⅱ

いよいよ検査の朝が来ました。
主人は比較的元気を取り戻して、検査室の中へ入って行きました。
20分か25分か過ぎた頃でしょうか、一人の看護婦さんが検査室から出て来られました。
よく見ると、見た事がある顔・・・・それは、私が以前、聖書学校の短期コースを取った時、一緒に学んだ姉妹でした。

 彼女もベンチに座る私を見つけ「どうしてここに居るの?」と尋ねてくれました。
私が、「主人が検査のため、ここで待っている。」と伝えると、彼女は「ご主人って、外人の方?」と聞きました。「そう。」と答えると、彼女の顔は、みるみる困惑した様になりました。
その顔から、検査の結果が普通ではない事ぐらい、すぐに判断がつきました。

 しばらくして、担当の先生が出て来られて、「大腸に小指の先ぐらいのポリープがある。」と説明して下さいました。ポリープと言われたけれど、それが癌である事に、先程の看護婦である姉妹の顔から明らかでした。

 医師は、しばらく体力をつけて後、手術となる事を告げて行ってしまいました。
不安と同時に「癌でも小指の先ぐらいの小さいものだったら、大丈夫。」と自分に言い聞かせて、すぐ入院と言う事で病室に移された主人に、医師の言われた通り、説明したのでした。

試練を越えて Ⅰ

突然倒れた主人。私は当時滋賀県で牧会をしていた主人の父にすぐ電話を入れました。
主人の父は、京都バプテスト病院に連絡を取ってくれました。私は慣れない車を走らせて京都へ向かったのです。

 すぐにレントゲンが撮られました。それだけでは充分ではないので、一晩入院して翌朝すぐに詳しい検査をするという事になりました。

 この検査入院の何日か前に、アメリカの主人のいとこから手紙を受け取っていました。
「叔母が腸癌になった。」と知らせを告げる手紙でした。
手紙の最後には「サンデ家には、腸癌の歴史があるから、今後異常があった時はその事実を医者に言うように。」と書かれていたのです。

 入院したその夜、私はその手紙の事、特に最後に書かれていた文章を繰り返し読み、何度も何度も考えていました。「主よ。主人に何か起きるのでしょうか? そして、それを前もって知らせるためにあの手紙を私達に送られたのでしょうか? どうか、共にいて下さい。」

 眠られない夜、祈り通しました。
そして翌日、検査の日を迎えたのでした。

試練の時の始まり

3年に渡ってインターン生が送られた後、短期宣教師として、マーニー・藤井師が送られて来ました。
彼女は、日系アメリカ人をお父さんとして持つ女性で、若い人達にとって本当に良い働きをしてくれました。

彼女が来てしばらくしてからの事でした。主人がしばしば腹痛を訴え出したのは・・・・。
ある日、訪問してくれた恩師の一人が私達の友人に「ポールは絶対大変な病気になっている。
首に縄をつけても病院へ連れて行きなさい。」と言われ、その後それが私の耳にも入りました。
ちょうどそれは私も不安に思っていた事でした。
顔色も悪いし、しばしば起こる腹痛も妙だと思っていたのです。

その頃忙しくしていた主人を説得して、主人が子供の頃からお世話になっている、京都のバプテスト病院にやっと診察の予約を取ったのですが、その予約の日が来ないうちにある朝突然、主人はガタガタと震え出したのです。

本部からインターン生を迎える

開拓伝道を始めて一年がたち、ベサニー本部から、神学校のインターン生を送りたいという依頼を受けました。けれども、受けたくても彼女を泊める部屋がありません。
今まで必要な物は、主が恵みに恵みを加えて備えて来て下さいました。
主人は、主が必要なら彼女のための部屋も与えて下さると言い、祈り始めたのでした。

   そして、ある日その祈りは不思議な方法で答えられたのです。
ある牧師先生が娘さんのためにプレハブの家を建てたのだけれど必要なくなったと言うのです。
まだ新しく、そのまま取り外せば充分建て直せるとの事。
主は本当にことごとく私達の必要に答えて下さるお方です。

 早速、レンタカーを借りて出発しました。
一つ一つの柱に番号を書いて、それを大切にトラックに積み込みました。
そして、持ち帰った中古のプレハブは見事に私達の離れの小さなスペースに建てられたのでした。

 最初に送られたインターン生は、カレンというまだ、20歳そこそこの女性でした。
私達の家に入ったとたんに(カルチャーショック!)大きな靴を履いたままドカドカと畳の間へ。
その後、トイレのスリッパを履いたまま集会に出たり、ハンバーガー・バンズのつもりで買って来た「あんぱん」の中の「あんこ」を見て悲鳴を上げたり・・・・。
彼女は、宣教師の大変さを一年間充分学び、帰って行きました。
日本に帰って来る事はありませんでしたが、結婚してフロリダのCLCで働きました。
彼女は、日本に来て、出会った一人一人のために今だ祈って下さっています。
私達が本部へ帰ると、彼女は名前をあげてその方達の様子をたずねて下さるのです。

 この年から3年間、インターン生が毎年送られてきました。

 以下に彼女達の写真を掲載します。ご覧になって下さい。


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最初のインターン生カレンさん

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2番目のインターン生/左がキャシーさん右がジャネルさん

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3番目のインターン生ケリーさん

開拓伝道当時のアルバムから

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都会のはずれの小さな村の教会

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当時の礼拝出席者の皆さんと

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洗礼プールの工事。体力と気力でみんなが手作りしました

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当時の教会学校風景

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開拓当時の教会堂「名もなく貧しく美しく」

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当時のクリスマス会

第一回目の礼拝

いよいよ、第一回目の礼拝が始まりました。
説教は牧師である主人。そして、その説教を聞くのは私一人でした。
時々、隣に住む父が礼拝に来てくれました。
そんな日が何ヶ月か続いたでしょうか、心の中は不安で一杯になってきます。

 幸い教会学校は祝され、近隣の子供達が10〜15名与えられ、教会に集まる様になりました。
クリスマス会は教会の礼拝堂が小さすぎて、地区の集会室を借りて行いました。
 そのうち英語クラスに来ていた方々が、時々礼拝に来てくれるようになりました。
そんな中で悲しい事が起きたのです。

   彼は私達の教会の第一号の受洗者になるだろうと思っていた方でした。
その方が突然召されたのでした。唯一の忠実な礼拝出席者でした。
いつも教会の玄関に立って、彼の緑色の車が向いた側の坂から降りて来るのを待ったものでした。

 礼拝出席者は少しずつ与えられたものの、なかなか受洗者が与えられないまま時が過ぎて行きました。
その時、アメリカの本部からインターン生を受け入れて欲しいという連絡が入りました。
亡くなった母の店を礼拝堂にし、私の勉強部屋という事で、父が建ててくれていた狭い離れに生活していた私達には、それは不可能に思えました。
でも、主人は「彼女のために部屋が与えられる様に祈ろう。」と言うのでした。

普段の日記

普段の日記1

拓伝道の幕開け

1981年、日本に戻った私達はまず、どこで開拓を始めるか祈りました。
答えはすぐに出ました。亡くなった母の小さな駄菓子屋が空の状態であったのですから・・・・。
しかしながら、ベサニー本部は、私達を日本へ送り出してくれたものの、私達に送られてくるお金では 到底、生きていく事は出来ません。

そこで、私が中学生と小学生のための塾を、主人がコンタクト作りを兼ねて、英会話クラスをする事にしました。

私達が開拓伝道をしようと言う事を聞いた、オメガ時代の友人達から、様々な献品が届きました。
まず、チラシ刷りのための輪転機、これは本当に助かりました。
来る日も来る日も、小学校の前に立って、教会学校の案内と、英語クラスの案内を配りました。
その後、説教台、ピアノ(カシオトーン)なども献品が届けられました。
そのうち、クラスで得た収入で、聖書10冊、椅子10脚、薄い聖歌(10〜15冊入った本)を買い 母の店の床にカーペットを敷いて、いよいよ、礼拝を始めたのでした。
本当に苦しい。でも、同じに本当に楽しい開拓伝道のスタートでした。

みことばが与えられる

チャペルはシーンと静かでした。
他の生徒達は午後の奉仕に。私は前日、夜働いて午後はお休みだったのです。
ぺらぺらと聖書を開いているうちに、目に止まったみことば・・・・
ヨハネ3章16節。クリスチャンにとっては、あまりにも有名すぎる聖句です。

神は実にその一人子をお与えになったほど世を愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びる事なく永遠の命を持つためである。

その時ハッと気付いたのです。
母は皆からの手厚い看病を受け、病院の中で医師達の一生懸命な治療を受けていた。
けれどイエス様は、もてる愛すべてで愛した弟子達に裏切られ
一人であの十字架の道を歩まれたのだと・・・・。
涙がとめどもなく溢れて来て「主よ。赦して下さい。
私の不平不満。もう母が何故、突然召されたかという理由は問いません。
主のご愛・・・・これが答えです。」と祈りました。
そして、主人に「日本へ帰ります。これで伝道出来ます。」と答えたのです。

そのようにして、私達の開拓伝道が始まりました。

ベサニー神学校での学び

母の死に何の意味があるのだろう。
一年間の神様との闘いの後、ベサニー本部(アメリカ・ミネソタ州)に行く事になりました。
それは、私の霊的・精神的ダウンを見て、主人が出した結論でした。

 ベサニー神学校で一年の学びが始まりました。
けれど、私の心の中には依然として「何故?」という質問の答えはなく神様の愛の見えないまま、頭だけの学びになって行きました。

ベサニー神学校は、ユニークな神学校で、午前中は授業が四時間あり、午後からは、印刷所・台所・庭の手入れ・事務所等での奉仕があります。
それらの奉仕をする事によって、授業料が無料になる訳です。
(ベサニーの写真を後日ご紹介しましょう。)

話が途切れてしまいましたが・・・・悶々とした神学校での生活の中である日、チャペルで一人座って
聖書を力なく開いていた時、主の語りかけを聞いたのです。

国際結婚?!

主人と出会ってしばらくする頃、導かれて結婚を考えるようになりました。
国際結婚と言う事もあり、田舎で育ち、外国の人をテレビや映画以外では見た事もない両親にとっては驚きと戸惑い以外のなにものでもなく、当然賛成などしてくれるはずがありませんでした。

私達に残されたのはただ、祈る事だけでした。

そして4年が過ぎ、ようやく両親の賛成を得、結婚に至りました。
開拓伝道に導かれた主人は、自分の卒業した神学校のミッションに入る事を決めその準備の為、アメリカにしばらく戻ろうとしていた矢先私の母が20日ほどの患いで突然召されたのです。

私はこれから、主人と共に、神のご用をする事を考えていたのに・・・。そこにはもう、神のご計画やご愛が見えなくなってしまいました。そして、不信仰に落ちて行ったのです。


—————T・Kさんのこと——————

T・Kさんは今95歳。いや、もう少しお年をめされているかしら。
素晴らしいクリスチャン婦人です。今はお体も弱って、床につく日々を過ごしておられます。
いつも輝いておられる、クリスチャンの大先輩です。礼拝では、お耳が遠いので、一番前に座って説教を聞いておられました。そして、必ずその日のメッセージにコメントして下さるのでした。
(牧師もそれを楽しみにしていました。)
「牧師夫人は、教会に来られる方々をただ、愛すだけでいいのです。」それが彼女の口癖でした。
けれど、いつもいつもそれを忘れてしまう、牧師夫人失格の私です。
T・Kさんの人生のラストスパートに私は祈りを持って応援しています。

「Youth With A Mission.」(青年伝道団)とポール先生との出会い

私が洗礼を受けた頃、梅田で「Youth With A Mission.」という青年伝道団チームの人達が、
クリスチャン・コーヒーハウス(オメガといいました)をしていて、
そこには、あちこちから若者達が集まって来ていました。
彼らは、駅前でトラクト(教会の集会案内等を書いたちらし)を配ったり
「シングスピレーション」という (今の*PPHのようなもの)
賛美集会をしたり積極的に伝道活動をしていました。

*PPHの意味は:

P Prayer  祈り          
P Praise  賛美          
H Hour   一時間 祈りと賛美の集会
そのオメガのリーダーが、今の私の主人、Paul Sunde(ポール・サンデ)でした。


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この人達は今何処に?これを見ていたら連絡してね!

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昼のコーヒーテーブルは夜はベッドに・・・・

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Paul、大親友の「しんちゃん」と

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毎週水曜日ライブをしていました

私はそれまで、ただ礼拝に(それも行ったり休んだり)
出席しているだけのクリスチャンでしたから彼らの神様への姿勢に、
本当に圧倒されてしまいました。
「どうして、彼らはこんなに生き生きしているんだろう・・・・」
というシンプルな疑問が私の足をいつも、そのコーヒーハウスへ向かわせたのです。

道端でも、マグドナルドでも、大きな声で祈る主人に、
少し恥ずかしいと思いつつ素晴らしいなぁ・・・・と思うようになりました。

当時の主人の写真を公開します。また、オメガの写真も数枚ご覧になって下さい。
そして・・・・主人と結婚に至ります。

イエス・キリストとの出会い

キリスト教とは何の関わりも無かった私が英語を学びたいだけで行った教会で
「人間は罪人」そして、「私の心にも、汚い思いがたくさんある事」を知ったのです。

そんな私が、イエス様を真正面にお迎えしなければならない決定的な時が来たのです。
それは、聖書に興味を持った私が、礼拝に時々行くようになって数ヶ月たった頃だったと思います。
母と大喧嘩をしたのです。
「お母さんなんか、死んでしまえばいい!」
母を呪って自分の部屋に閉じこもった時自分は何て情けない人間だろう・・・・
何て、惨めな人間だろう・・・・そう思えて来て、大声で泣き始めたのでした。

その時、この一点のしみも汚れもない、イエス様に始めて祈ったのです。
「イエス様、もし、あなたが教会の人の言われるように
本当に生きておいでなら、この惨めな私をお赦し下さい。」と。

その時です。私はその時の体験を忘れる事が出来ません。
「私は生きているよ。そして、おまえを赦してあげよう。
私はその為に十字架を忍んだのだよ。」との語りかけを心の深い所で聞いたのです。
その時私は赦される事の平安と恵みが、どれほど大きいかを知ったのです。

そして、短大の二年生の時、洗礼を受けました。その後私にどんな人生が待っていたのか。

それはこの次ぎに、書かせて頂きます。皆様も、このイエス様に出会われます様に。
心から祈りつつ・・・・

はじめに

この度、ベサニーホームページに
「牧師夫人の部屋」
なるものを載せたいので何か書いて下さいと仰せつかりました。
「えっ?!何を書けばいいの?」と一瞬戸惑ってしまって「少し祈らせて・・・」と言ったものの、
その熱心さに負けてしまいました。

さて、何を書きましょう?!
「牧師夫人の心得」なんて書くにはあまりにも未熟ですし・・・。
と、考えて・・・。

私の救いの「あかし」を少しずつ書かせて頂くことにします。

 実は私は、今私達の教会の立っているここで生まれました。
まるで、キリスト教の影響などひとかけらもない、
この田舎で育ちましたが高校の時、興味を持った「英会話」がきっかけで、
高校の近くにあった教会に通い始めたのでした。
無料で英語を教えて下さったのは、ノルウェーから来られていた宣教師の先生でした。
一時間の英語のレッスンの後で、聖書を教えて下さったんですね。
そのうち、人間は本当に罪人なのだと解りました。
そして、私もまた、人には見えない心の中に罪が満ちている事が解ったのです。
そんな中で、イエス様の決定的な出逢いがやってきたのです。

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