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2008年05月05日
キリスト者のあかし
数日前に経験したことをお話したいと思います。
同じ社宅に住む小学校2年生の男の子が、同じく2年生の女の子を訪ねてきたところに居合わせました。
2人の会話から察するに、男の子がいっしょに帰ろうと約束したのに、女の子がその子を放ってほかの友達と走って帰ってしまい、
その理由を訊きにきたということのようでした。
男の子はよほど悲しかったのでしょう、眼にうっすらと涙をうかべて、自分の気持ちを伝えていました。
女の子のほうは少しバツの悪そうな顔をしながら、「約束した覚えはない」と答えていました。
結局、『自分がされて悲しいことを、ほかの人にしてはいけない』ということをお母さんに諭された女の子が、
ごめんなさいと謝り、男の子は少しほっとしたような顔をして、階段を上り家にもどっていきました。
約束をしたのか、したという自覚がなかったのか、それはわからないことですが、あいまいなままにしないで、
気持ちを伝え、また相手の考えを確認しようとした男の子の純真な思いと、素直にあやまった女の子の気持ちとを、私はほほえましく感じていました。
また、自分の勝手な解釈で事態を納得しようとしたり、なかったことのようにふるまおうとしたり(もちろん、それもときには必要なことでは
あるのですが)する自分の思いを省みたりしていたのです。
が、ここでもっと大事なことに思い至りました。 それは、この男の子のように、私は神さまを悲しませてはいないだろうかということでした。
聖書には、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』という教えがよく出てきます。
申命記6:5や、第2列王記23:25に、また、聖書のなかでどの戒めが一番大切かと訊かれた主キリストが、
『神を愛すること、そして隣人を愛すること、これ以外に大事な命令はない』とお答えになる場面があります(マルコ12:29-31)。
『御子キリストのいのちと引き換えにしてまで、罪を赦し、愛してくださっている神さまと交わした、神さまを一番にして生きるという約束』を、
私は『したつもりはない』とか、『していない』などと、のらりくらりとかわしては神さまを悲しませてはいないかと思ったのです。
残念ながら今の私には、『悲しませてはいない』と、言い切る自信がありません。
悲しませるようなことをしていた自分を赦してくださいと、この女の子のように素直に謝りたいと思います。
そして、決して変わることのない神さまの約束を信じ、神さまへの約束をいつも守る者でありたいと願い、その力をも与えてくださいと
祈りたいと思います。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。 ヤコブの手紙 1:17
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 ヘブル人への手紙 13:8
yamakyo
投稿者 bethany : 2008年05月05日 00:57
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