ベサニー・キリスト教会
大阪府堺市のはずれにある、泉北ニュータウンのそのまたはずれにある村の小さな教会。
でもそこに一歩踏み入れたら暖かい家庭的な雰囲気にあなたの心もなごむことでしょう。
聖書の中にある、一世紀当時の教会の姿がここにはあります。
まだ一度も教会に行ったことのない方、以前教会に行っていたけど今は行っていない方、どなたでもどうぞご遠慮なくお出で下さい。
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I am now reading Os Guinness' latest book, "The Case For Civility". As I am not done with it yet I cannot give a full report on it but I would like to share one quote of his and comment on that. When I have finished the book I promise to give a full report.
The quote is, "Religious liberty, or freedom of conscience, is a precious, fundamental, and inalienable human right-the right to reach, hold, freely exercise, or change one's beliefs, subject soley to the dictates of conscience and independent of all outside, especially goevernmental, control."
Now, that is a sentence! I am glad that he also added the phrase, "freedom of conscience" because sometimes the phrase, "religious liberty" can be misunderstood. But what religious liberty is all about is freedom to follow your own conscience. I have thought about the importance of our conscience a lot lately. Following God or the leading of the Holy Spirit often comes down to simply following our conscience. Our consceince is the voice of God in our heart that leads us and tells us what is wrong or right.
There are so many other voices out there trying to get our attention-the voice of human approval, the voices of our friends and family, all the things we see and hear on TV and on the Internet, etc. However, when all is said and done, the only voice we are to folllow is the voice of our conscience.
As I often share in church, I am so thankful that at this point in time, there does seem to be true religious liberty in Japan. We are free to meet together on Sunday and to share our faith together. I believe we need to daily thank God for that freedom that we have and to not forget the prime importance of following the voice of our conscience.
When I finishthe book I will write another report.
...愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐えしのびます。
愛は決して絶えることがありません。...(コリントI 13:3-8)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリントI 13:13)
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。(ローマ14:3)
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:6)
これらは、私が受けた今日の御言葉です。(落ち込みから立ち直りました。)
聖書を開き、御心を求めて読むと、いつも、他にもたくさんの御言葉が私を励まし、へりくだらせ、希望を与え、喜びと感謝で満たしてくれます。
神様は私達に、「祈り」という手段を、同じ(公平な)恵みとしてを与えてくださっています。クリスチャンはこのことを知っているから本当にラッキーです。兄弟姉妹達に祈られていることを喜びませんか。兄弟姉妹たちのために自分も祈ることができることを喜びましょう。「祈り」は神様との会話の手段だけでなく、兄弟姉妹たちと(神様が喜ばれる)良い関係を築く手段でもあるんですよね。
前述の御言葉の「愛」のすべての働きを全部自分が活かせてできているかと問うと、いっぺんにできないことばかりで恥ずかしくなります。でも、ひとつでもふたつでも「そう在ろう!」と思えるのは、神様が明確に語ってくださっていることを、私は知っているから。
神さまの愛が私の心を満たし強めてくださいますように。そして、同じ愛があなたの心も満たし、強めてくださいますように。そして、今日も私のために祈ってくださったあなた(兄弟姉妹)に心から感謝します。また、私も今日、あなたのためにも祈っています。信仰の友を与えてくださった神様に感謝します。私達の主、イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
mn
人には様々な導きというものがありますね。そしてそれは、みんなが同じではないのですね。でも、一人一人が神様の前に高価で尊い存在である事は間違いありません。又、キリスト教は御利益宗教ではありません。でも「あなた方の願い事を神に知って頂きなさい」と聖書は語ります。だから私達は自分の為に祈り、人の為にも祈ります。そして神様が応えてくださったら、共に感謝します。教会は「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」神の家族なのです。RS
神様の方法
先日、「ジェイムズ聖地へ行く」と言う映画を観ました。アフリカ
の村出身の敬虔なクリスチャンで純真無垢な青年ジェイムズは、村
の次の牧師に任命され、エルサレムへ巡礼の旅に出かけました。イ
スラエルの空港で不法労働者と間違われパスポートを押収されて留
置所へ。その後、あらゆる試練が彼に…はてさて、ジェイムズは、
どうなるんだろう?…はい!行きましたとも!エルサレムへ。それ
が、えっ!こう言う方法で?と驚く形で行く事になるんですね。
私たちは、自分で色々と計画をします。毎日、毎週、毎月、毎年。
そして、祈ります。しかし方法や時は神様の御手に委ねる事なんで
すね。神様が私を愛し私の小さな小さな成長をする為に試練の時を
与えて下さってると確信し真の平安を感じながら過ごしたいと思い
ます。「ジェイムズ聖地へ行く」機会があれば、ぜひ、ご覧ください。
mck
Kちゃん、合格おめでとう!嬉しかったです。だって私の後輩になるんですから☆よく頑張ったね!神様のご褒美だよ。礼拝をおやすみすることなく、Kちゃんを送り向かいし続けたお母さん!神様のご褒美です。本当におめでとうございます!
山京さんらしいメールありがとう!人生の一発逆転劇も・・あるんですよね!イエス様は私達に失望してはならないことをあの不当な裁判官の例えで教えてくれました!いつも主に期待して歩みたいと思ったことです。
お二人の書き込みに思わず私も書きたくなりました!
RS
1月19日・20日は、娘の中学入学試験が連日あり、四半世紀ぶりに緊張した3日間を過ごしました。この間「祈りはきかれていて、すでに受けている。」と確信と平安はずっとあったと思いますか?
実は、試験前夜は、子供達を早く就寝させて、自分自身も短く祈った後、いろんな思いをめぐらせながら、11時過ぎには就寝しました。いつもなら朝6時まで熟睡するのに、この夜は2時頃から一時間毎に「あっ寝過ごした?」と目が覚め、5時半には早々と起床。(苦笑)めちゃくちゃ寒い中、朝早く娘と出かけて行きました。約4時間、受験校のチャペルで試験終了まで待機しました。
2日目はお弁当持参だったので、さらに早起きで(^ ^;)おまけに5時間。感謝なことに、やはりチャペルで待機。ただ、ほとんど立ち上がらずにいたので、腰がおかしくなりました...
この日、10時30分から一人で心の中で礼拝をしました。(教会の皆さんと一緒に礼拝している気持ちで、いつもの日曜礼拝のとおりに。)これまで励まされてきた多くの御言葉を思い出しながら祈りました。賛美と祈りがたくさん次から次へと湧いてきて、だんだん期待と希望と喜びと感謝とが膨らみ、賛美を周りに聞こえないようにしながらも小さな声で歌ってしまうほどに。(退屈しない母 =3)
ところが、試験が終わり戻ってきた娘が「難しかった。社会と算数は想像以上に難しかった。うーん、やばいかも...。」と。
翌日の発表まで、自分にも娘にも「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせながらも、沸々と不安の泡が膨らんでは弾けてを繰り返し。「やっぱり、難しすぎたのかな。→でも祈って導かれて選んだ進路なんだけどなぁ。→大丈夫。→まてよ?自分の願いを導きと勝手に思い込み?→もし試験に落ちたら!→どうやって娘を労わってあげようか?塾の先生にもらった神社のお守りは偽神様のものだから要らん!私にはイエス様がいる、と触れずにいた娘。自信が無くなるだけでなく、神様への信頼も無くすかも?。→ああっ、もう決まっていることをあれこれと思い煩うのはやめよう。→希望も期待も不安も恐れも神様に委ねて大丈夫と御言葉をいっぱいもらってたんだから絶対大丈夫。→感謝!」目まぐるしい思考変化の母を尻目に、当人は、試験が全部終わって、「完了」モード。まんがやTVに没頭。
翌朝・・・合格発表を見に学校へと歩くのが、まるでジェットコースターの最初のガタンガタンとレールの頂上まで上る時の気分。予定時刻の5分前に校門をくぐると、すでに合格者番号が貼り出してありました。「やったー!よかったね!神様ありがとう!」
以上の実況中継、いかがですか?すごく興奮と忍耐と緊張と感謝と喜びに満ちた3日間でした。
今朝、下の娘が「いつも喜んでいるんでしょう?いつも祈るんでしょう?そしていつも感謝だったね?CSの先生にきいて知ってるよ。」と急に思い出したかのように、登校前に笑顔で私に尋ねてきました。
「ああ、子供達は神様の言葉をちゃんと覚えているんだ。神様や家族だけでなく、教会の皆さんの愛を受けて育っている。感謝、感謝。」 神様が共にいて導いてくださること、いつも忘れずにいたいです。
先日行われましたNFL(アメリカンフットボール)の試合をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか? 現地時間2月3日のスーパーボールの出場をかけて、4チームが激突しました。 2試合のうちのNYジャイアンツ対GBパッカーズの試合は、本当に劇的な一戦になりました。
氷点下30度にもなる寒さの中、両チームがタッチダウンを取り合うシーソーゲームが展開されました。
ジャイアンツのキックが決まれば勝つという状況で、キッカーがゴールをはずし、なんと延長戦にもつれこんだのです。 アメリカンフットボールの延長戦では、先攻がだんぜん有利だそうです。 コイントスで先攻を取ったのは、パッカーズでした。
『あ~ぁ、終わったな。 パッカーズの勝ちか・・・』
アメフト素人の私は内心そう思いながら見ていました。 しかし絶対有利のなかで、パッカーズはパスをカットされ、攻守が入れ替わりました。 そして試合は、キックをはずし続けたジャイアンツのキッカーの、長距離ゴールが決まり、ジャイアンツの勝利で幕を閉じたのです。
私たちは見える状況や経験から、結末を判断します。 いろいろな計画を立てて、そのとおりに物事が進んでいくように考えてしまいがちです。 しかしいつもそうなるとは限りません。 いや、そのとおりになることのほうが少ないでしょう。 この試合を見ていて、聖書のことばを思い出しました。
人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。 箴言16章9節
私には一瞬さきに何が起こるのかを知ることもできません。 しかし歩みを確かにしてくださる神さまがいてくださいます。 限りだらけの自分の力に頼ることなく、導いてくださる主とともに歩む日々でありたいと思います。 yamakyo






