数日前に経験したことをお話したいと思います。
同じ社宅に住む小学校2年生の男の子が、同じく2年生の女の子を訪ねてきたところに居合わせました。
2人の会話から察するに、男の子がいっしょに帰ろうと約束したのに、女の子がその子を放ってほかの友達と走って帰ってしまい、
その理由を訊きにきたということのようでした。
男の子はよほど悲しかったのでしょう、眼にうっすらと涙をうかべて、自分の気持ちを伝えていました。
女の子のほうは少しバツの悪そうな顔をしながら、「約束した覚えはない」と答えていました。
結局、『自分がされて悲しいことを、ほかの人にしてはいけない』ということをお母さんに諭された女の子が、
ごめんなさいと謝り、男の子は少しほっとしたような顔をして、階段を上り家にもどっていきました。
約束をしたのか、したという自覚がなかったのか、それはわからないことですが、あいまいなままにしないで、
気持ちを伝え、また相手の考えを確認しようとした男の子の純真な思いと、素直にあやまった女の子の気持ちとを、私はほほえましく感じていました。
また、自分の勝手な解釈で事態を納得しようとしたり、なかったことのようにふるまおうとしたり(もちろん、それもときには必要なことでは
あるのですが)する自分の思いを省みたりしていたのです。
が、ここでもっと大事なことに思い至りました。 それは、この男の子のように、私は神さまを悲しませてはいないだろうかということでした。
聖書には、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』という教えがよく出てきます。
申命記6:5や、第2列王記23:25に、また、聖書のなかでどの戒めが一番大切かと訊かれた主キリストが、
『神を愛すること、そして隣人を愛すること、これ以外に大事な命令はない』とお答えになる場面があります(マルコ12:29-31)。
『御子キリストのいのちと引き換えにしてまで、罪を赦し、愛してくださっている神さまと交わした、神さまを一番にして生きるという約束』を、
私は『したつもりはない』とか、『していない』などと、のらりくらりとかわしては神さまを悲しませてはいないかと思ったのです。
残念ながら今の私には、『悲しませてはいない』と、言い切る自信がありません。
悲しませるようなことをしていた自分を赦してくださいと、この女の子のように素直に謝りたいと思います。
そして、決して変わることのない神さまの約束を信じ、神さまへの約束をいつも守る者でありたいと願い、その力をも与えてくださいと
祈りたいと思います。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。 ヤコブの手紙 1:17
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 ヘブル人への手紙 13:8
...愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐えしのびます。
愛は決して絶えることがありません。...(コリントI 13:3-8)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリントI 13:13)
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。(ローマ14:3)
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:6)
これらは、私が受けた今日の御言葉です。(落ち込みから立ち直りました。)
聖書を開き、御心を求めて読むと、いつも、他にもたくさんの御言葉が私を励まし、へりくだらせ、希望を与え、喜びと感謝で満たしてくれます。
神様は私達に、「祈り」という手段を、同じ(公平な)恵みとしてを与えてくださっています。クリスチャンはこのことを知っているから本当にラッキーです。兄弟姉妹達に祈られていることを喜びませんか。兄弟姉妹たちのために自分も祈ることができることを喜びましょう。「祈り」は神様との会話の手段だけでなく、兄弟姉妹たちと(神様が喜ばれる)良い関係を築く手段でもあるんですよね。
前述の御言葉の「愛」のすべての働きを全部自分が活かせてできているかと問うと、いっぺんにできないことばかりで恥ずかしくなります。でも、ひとつでもふたつでも「そう在ろう!」と思えるのは、神様が明確に語ってくださっていることを、私は知っているから。
神さまの愛が私の心を満たし強めてくださいますように。そして、同じ愛があなたの心も満たし、強めてくださいますように。そして、今日も私のために祈ってくださったあなた(兄弟姉妹)に心から感謝します。また、私も今日、あなたのためにも祈っています。信仰の友を与えてくださった神様に感謝します。私達の主、イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
mn
神様の方法
先日、「ジェイムズ聖地へ行く」と言う映画を観ました。アフリカ
の村出身の敬虔なクリスチャンで純真無垢な青年ジェイムズは、村
の次の牧師に任命され、エルサレムへ巡礼の旅に出かけました。イ
スラエルの空港で不法労働者と間違われパスポートを押収されて留
置所へ。その後、あらゆる試練が彼に…はてさて、ジェイムズは、
どうなるんだろう?…はい!行きましたとも!エルサレムへ。それ
が、えっ!こう言う方法で?と驚く形で行く事になるんですね。
私たちは、自分で色々と計画をします。毎日、毎週、毎月、毎年。
そして、祈ります。しかし方法や時は神様の御手に委ねる事なんで
すね。神様が私を愛し私の小さな小さな成長をする為に試練の時を
与えて下さってると確信し真の平安を感じながら過ごしたいと思い
ます。「ジェイムズ聖地へ行く」機会があれば、ぜひ、ご覧ください。
mck
1月19日・20日は、娘の中学入学試験が連日あり、四半世紀ぶりに緊張した3日間を過ごしました。この間「祈りはきかれていて、すでに受けている。」と確信と平安はずっとあったと思いますか?
実は、試験前夜は、子供達を早く就寝させて、自分自身も短く祈った後、いろんな思いをめぐらせながら、11時過ぎには就寝しました。いつもなら朝6時まで熟睡するのに、この夜は2時頃から一時間毎に「あっ寝過ごした?」と目が覚め、5時半には早々と起床。(苦笑)めちゃくちゃ寒い中、朝早く娘と出かけて行きました。約4時間、受験校のチャペルで試験終了まで待機しました。
2日目はお弁当持参だったので、さらに早起きで(^ ^;)おまけに5時間。感謝なことに、やはりチャペルで待機。ただ、ほとんど立ち上がらずにいたので、腰がおかしくなりました...
この日、10時30分から一人で心の中で礼拝をしました。(教会の皆さんと一緒に礼拝している気持ちで、いつもの日曜礼拝のとおりに。)これまで励まされてきた多くの御言葉を思い出しながら祈りました。賛美と祈りがたくさん次から次へと湧いてきて、だんだん期待と希望と喜びと感謝とが膨らみ、賛美を周りに聞こえないようにしながらも小さな声で歌ってしまうほどに。(退屈しない母 =3)
ところが、試験が終わり戻ってきた娘が「難しかった。社会と算数は想像以上に難しかった。うーん、やばいかも...。」と。
翌日の発表まで、自分にも娘にも「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせながらも、沸々と不安の泡が膨らんでは弾けてを繰り返し。「やっぱり、難しすぎたのかな。→でも祈って導かれて選んだ進路なんだけどなぁ。→大丈夫。→まてよ?自分の願いを導きと勝手に思い込み?→もし試験に落ちたら!→どうやって娘を労わってあげようか?塾の先生にもらった神社のお守りは偽神様のものだから要らん!私にはイエス様がいる、と触れずにいた娘。自信が無くなるだけでなく、神様への信頼も無くすかも?。→ああっ、もう決まっていることをあれこれと思い煩うのはやめよう。→希望も期待も不安も恐れも神様に委ねて大丈夫と御言葉をいっぱいもらってたんだから絶対大丈夫。→感謝!」目まぐるしい思考変化の母を尻目に、当人は、試験が全部終わって、「完了」モード。まんがやTVに没頭。
翌朝・・・合格発表を見に学校へと歩くのが、まるでジェットコースターの最初のガタンガタンとレールの頂上まで上る時の気分。予定時刻の5分前に校門をくぐると、すでに合格者番号が貼り出してありました。「やったー!よかったね!神様ありがとう!」
以上の実況中継、いかがですか?すごく興奮と忍耐と緊張と感謝と喜びに満ちた3日間でした。
今朝、下の娘が「いつも喜んでいるんでしょう?いつも祈るんでしょう?そしていつも感謝だったね?CSの先生にきいて知ってるよ。」と急に思い出したかのように、登校前に笑顔で私に尋ねてきました。
「ああ、子供達は神様の言葉をちゃんと覚えているんだ。神様や家族だけでなく、教会の皆さんの愛を受けて育っている。感謝、感謝。」 神様が共にいて導いてくださること、いつも忘れずにいたいです。
先日行われましたNFL(アメリカンフットボール)の試合をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか? 現地時間2月3日のスーパーボールの出場をかけて、4チームが激突しました。 2試合のうちのNYジャイアンツ対GBパッカーズの試合は、本当に劇的な一戦になりました。
氷点下30度にもなる寒さの中、両チームがタッチダウンを取り合うシーソーゲームが展開されました。
ジャイアンツのキックが決まれば勝つという状況で、キッカーがゴールをはずし、なんと延長戦にもつれこんだのです。 アメリカンフットボールの延長戦では、先攻がだんぜん有利だそうです。 コイントスで先攻を取ったのは、パッカーズでした。
『あ~ぁ、終わったな。 パッカーズの勝ちか・・・』
アメフト素人の私は内心そう思いながら見ていました。 しかし絶対有利のなかで、パッカーズはパスをカットされ、攻守が入れ替わりました。 そして試合は、キックをはずし続けたジャイアンツのキッカーの、長距離ゴールが決まり、ジャイアンツの勝利で幕を閉じたのです。
私たちは見える状況や経験から、結末を判断します。 いろいろな計画を立てて、そのとおりに物事が進んでいくように考えてしまいがちです。 しかしいつもそうなるとは限りません。 いや、そのとおりになることのほうが少ないでしょう。 この試合を見ていて、聖書のことばを思い出しました。
人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。 箴言16章9節
私には一瞬さきに何が起こるのかを知ることもできません。 しかし歩みを確かにしてくださる神さまがいてくださいます。 限りだらけの自分の力に頼ることなく、導いてくださる主とともに歩む日々でありたいと思います。 yamakyo
先日、いただいたガイドポスト(Guideposts)という小冊子を、通勤帰りに電車で読んでいました。皆さんは、最近アメリカのTV番組で「アメリカンアイドル(American Idol)」という、昔の「スター誕生」みたいな番組をご存知ですか?我が家は家族で時々観ては、「あの人、絶対勝ち抜く!」とか、「うっわぁ、むちゃくちゃ上手い!」とか言っては盛り上がっています。ガイドポストには、トップ6にまで勝ち残った、ケリーという女の子の証が載っていました。訳すると長くなるので、ポイントをいいますと、ケリーは幼少期から、母親の失踪と、父親の暴力と度重なる入出刑務所という辛い経験の中、祖母と毎日歌った賛美歌が、子供だった自身の心の重荷を取り除き、勇気と元気をもらっていた、ということでした。彼女の証を読んで、涙が出ながらも、神さまの愛をうれしく思い、すがすがしい気持ちでいっぱいでした。電車の中でひとり涙して、にやにや笑って・・・っ気持ち悪いっやつ・・・と思われたかも(^^;)
MN
私は五年前、中国から来ました26歳の主婦です。
神様の愛と優しさを体験した事がいっぱいあります。
二ヶ月前のある日の朝、
私の五歳になる子供が突然片方の足がとても痛くて、
歩く事が出来なくなりました。
どうしてこんなことが起こったのだろう
子供は何もしていないのに、おかしいと思いました。
でも、神様が共にいて下さる事を信じていますからとにかく信仰を持って、
神様の御前で自分の心配している事と助けて下さる事を祈りました。
その後は何も心配する事もなく、足が治るのを待っていました。
二日後の朝、子供が目を覚まして、
「ママ、足が治ったよ。ぜんぜん痛くない!」と言いました。
本当に信じられませんでした。
その時、神様の愛と優しさが良く解りました。
神様を賛美しました。
感謝と感動の気持ちを毎日持っています。
神様は私達のお医者様である事が解りました。
ほかにも、どんな困った事でも神様に助けてもらっています。
神様の愛と優しさと恵みを、世界中の人々に知らせたいです。
もし、あなたが今、このページをご覧になっておられましたらあなたの心の中で、
神様があなたの名を呼んでいるかも知れません。
もし、あなたがいろいろな事で困っていましたら、
そして神様の声が聞こえましたら、
神様の愛と優しさを体験なさるためにどうぞ、
神様の家、ベサニーキリスト教会へぜひ、お越し下さい。
先日、元暴走族の青年が神学生になったドキュメント番組を見ました。
彼は少年院の中でクリスチャンになる事を考えました。
それは、昔から「愛されたい」「ちやほやされたい」
という思いで悪い事をし愛され続けるには、
一生涯悪い事をし続けなければいけない事に空しさを感じていたからでした。
その彼は、「今までの自分の存在で、仲間の人生をも悪い方に変えてしまった。
人を刺したり、シンナーを吸わせたり、多くの罪深いことをして来た。
だから、これからは人一倍『ええ事』をしたいと思った。
牧師になって、『イエス様に愛されているんや』と皆に伝えたい。」と言って、
神学校に通っています。
そんな彼の昔の仲間は、
「今まで大阪一の『悪』やった人間が、真面目になれた事は凄い!」
と話していました。
「あなたも、真面目になろうとは思わないの?」
と言う質問に対し昔の仲間は
「今まで自分の生きてきた道がこれだから。変わりたくても変われない。」
と答えていました。
その言葉が、私の胸に突き刺さりました。
私も、変わりたくても変われなかったからです。
私は、非行少女ではなかったのですが、
人に迷惑をかけたり、傷つける事に罪意識を持たない少女でした。
高校では、友達の信用を失い、教会へ来ました。
苦い思いをして、それでも懲りずに失敗する私にイエス様は
「失敗するところも含めて、あなたを愛しているよ。」
と心に語ってくれました。
いろいろと辛い事もありましたが、そんな出来事や、
暖かい人達との出会いを通して神様は人を思いやる事の大切さを教えてくれました。
そして、少しづつ人の痛みが解る様になって来ました。
今、私を本当に理解してくれる友達が周りにいます。
人は一人では変われません。
でも、イエス様の愛を知った時、愛のある人に変えられていきます。
これからも、イエス様の愛の中で生き、愛のある人に変えられていきたいです。
だから私は、教会に通っています。
『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。』
聖書の中のイエスキリストの言葉。
坂本龍一氏の奏でるメロディー「エナジーフロー」が
今般オリコンの一位に輝いています。
人の疲れを癒す曲を作って欲しいと言う依頼に、見事に答えた作品ですね。
聞いていると、確かに、疲れが取れるような気がするのだから、
作った彼は、まさしく天才であるかも知れません。
「天才」私は少々、この言葉にこだわります。
「天才」・・・・天から与えられた才能、天国からの才能つまり、
神様から与えられた才能と言う風に考えられますね。
ある人が、神様から特別に与えられた賜物ではないでしょうか。
時には画家であったり、作家であったり、また映画監督であったり、
いろんな分野に、それを与えられた天才たちがおられます。
彼らは人を感動させたり、熱くさせたりしてくれるのです。
やはり、天(神様)から才能を特別に与えられた人は凄い。
つまり神様って、凄い。
私達、普通の人を通してでも、感動を与えて下さいます。
さて、しかし、その天才達にも出来ない事があります。
それは、私達を罪から救うと言う事です。罪を赦すと言う事です。
私達は普段の生活で、人に嘘をついたり、人を傷つけたり、
あるいは本当に法的に犯罪を犯す事もあるかも知れません。
私は正しく生きている、清い人間だと思っている方はいらっしゃいませんか。
もし、いらっしゃるなら、それは一体、誰が正しいと決めたのか、お考え下さい。
あなたの周りの友達ですか?
それとも、家族ですか?
いずれにしろ、正しさの基準もバラバラですし、そんな権限もありません。
まして、自分自身が、勝手に正しいと決めている、なんていうのは論外でしょう。
嘘をついて、罪の意識に駆られた事はないでしょうか?
苦しみ悩むほど、人を傷つけた事はないでしょうか?
よく考えてみて下さい。自分の中の罪の事を。
そして、もし、それに気づいたなら、それを赦して下さる方、
そこから救い出して下さる方を、捜し求めて下さい。
行き着く所は一つしかありません。
それは、私たち人間を創造された方、
そして、私達が生きて行く上で、正しい、正しくないを決められる方、
つまり父なる神様の所です。
そして私達の罪のために、その罪を全部背負って、
十字架にかかって下さった父なる神の子、イエス・キリストの所です。
イエス様は、私達を感動させたり、熱くさせたり、
生きる勇気を与えて下さるだけでなく、私達の罪を赦し、
罪から救い出して下さる事の出来る、この世でたったお一人の天才なのです。
私達の教会、ベサニーキリスト教会へどうぞお出で下さい。
そして、神様の愛に触れてみて下さい。
このページをご覧になっておられるあなたのお出でをお待ちしています。
あなたも神様の愛に触れてみて下さい。
心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:5〜6
この聖句には、私達が神様に期待されている進行の歩みの姿が書かれています。
つまり、「心を尽くして主により頼め。」「自分の悟りに頼るな。」
そして、「どこにおいても主を認めよ。」の三つが勧められています。
そうすれば、「主はあなたの道をまっすぐにされる。」という
本当に幸いな祝福が約束されています。
しかし、教会も、クリスチャンも、この地上にあって未完成のものです。
絶えずサタンと戦い、その都度、主の助けを頂き、失敗しては
悔い改め、また失敗しては悔い改めるのが、私達の歩みだと思うのです。
私達が完成するのは、主が再臨され、新しい天地が到来する時なのです。
この世に問題のない教会やクリスチャンは存在しませんが、
それに勝利させ、すべてを益に変えて下さる、十字架の赦し・力・解決があると信じます。
様々な問題提起はありますが、それを乗り越えた時、必ず、主の御業が現れるのです。
大切な事は、主は私達を日々、新しく創造して下さる方であると言う事なのです。
すぐに目に見える変化はなくても、忍耐を持って、主に信頼する事の幸いを
十分に味わいたいものだと思います。
「ピピピピ・・・・」目覚し時計の朝を告げる音。
「今日も、主が造られた一日。私はこの日を喜ぼう。」
と起きる事が出来たなら、素晴らしいのですが、
数ヶ月前の私は、まるで大根かゴボウを土の中から引きずり出すようにして、
おきあがる日々が続いていました。
「私はクリスチャンなのに・・・・、まして教職を手伝う者なのに。」
そんな焦りの一方で、心を占領する虚しさに、
自分ではどうする事も出来ませんでした。
私のような者は、生きていてはいけないとさえ思えて来るのです。
そのような中で、私を支え、その一日を喜びを持って過ごす事が出来たきっかけは、
ディボーション(個人礼拝)を持つ事でした。
とりあえず、虚しさをそのまま受け入れ、朝、とにかく机の前に座り、
聖書を開きディボーションのガイドブックを開くのです。
「天のお父様、御子なるイエス様、ご聖霊様、三位一体の神様・・・・」
と主のご臨在を宣言します。
この主なる神様に向かって呼びかける言葉は、本当に大切だと思います。
全ての権威を持っていらっしゃる方の前に立つ事が出来る特権の凄さを、
この宣言は思わせてくれます。
ちっぽけで貧しい私が、
聖なる聖なる万軍の主の前に立っているイメージが頭の中に浮かびます。
すると、朝からの虚しさが徐々に消えて行くのです。
「神様が知っていて下さるのだから、全てが大丈夫なのだ。」
と平安になってくるのです。
全てが嬉しくなって来るのです。
私は今、「幸いな人」と「リビングライフ」
というディボーションのガイドブックを使って、礼拝しています。
二冊も使うと一時間から一時間半の時間を必要とします。
着替えもせず、チャンチャンコを着て座っていますので、
時々「掃除、洗濯、アレコレ・・・・」と焦ってくる時もありますが、
それらの思いをエイッと向こうに押しやって、
私にとって宝であるディボーションをする事を選び取ります。
家族の事、教会員の事、友人の事、塾の生徒の事・・・・と、
あまりにも祈る事が多いため、一週間のうちで、
グループに分けてノートに名前を書き記しお祈りしています。
すると、主は不思議な方法で祈りに答えて下さるのです。
その朝、深く主から示されて祈った人から、突然電話があったり、
ばったり買い物先で出会ったり、
ご本人が教会をひょっこり訪れて下さったりといった事がしばしばありました。
もちろん、長い間祈っても祈っても答えが与えられない祈りもたくさんあります。
しかし、主に何かのお考えがあるのだと思い、尋ね続けています。
そして、主を礼拝する事、否、礼拝させて頂く特権がある事の素晴らしさを思います。
「あなたのみことばは、私の上あごに何と甘い事でしょう。
蜜よりも、私の口に甘いのです。」
詩篇119・103
愛もなく、失敗ばかりする私のような貧しいものを生かし、
愛し、待っていて下さる主の御名を崇めます。
「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。
主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせて下さる。」
詩篇23:1
人の一生はとても短いものです。
その短い一生の中で、一人一人苦しい事や辛い事、楽しい事を経験します。
私は17歳の時、将来に対する夢で一杯でした。
我がままで自己中心的で、自信に満ち溢れていました。
自分で何でも出来ると思っていました。
他人の事など目に入りませんでした。
その時は分からないものですが、こういう時が一番危険です。
イエス様の福音を始めて知った時、すぐに信じ受け入れました。
しかし、少し時間がたつと、神様から離れてしまいました。
その間に、いろいろな事があり、2年間その状態が続きました。
苦しい事や恥ずかしい事を経験して、そんな自分に絶望し、落ち込み、
自分の力でそこから抜け出そうとして努力をしても出来ませんでした。
その時初めて自分の力では何も出来ない事を知りました。
自信がなくなりました。
全ての夢も消え去りました。
人生の終わりに来たような気持でした。
しかし、人が終わりだと思った時、神様にとってそれは始まりなのです。
イエス様は最初から、一度も私を見放しませんでした。
慈しみ深い父なる神様は、私が帰って来るのをずっと待っていて下さいました。
神様の大きな愛の中で、私は本当の自分を見つけました。
その時心からイエス様を信じました。
ある祈りの集会の時の事です。初めて神様のみわざを見ました。
ある40代くらいの婦人は、イエス様を信じる前、霊媒師をしていました。
しかし、イエス様を信じた時、家にあった全ての偶像を捨てました。
この集会の時、皆が順番に祈っていました。
この婦人の番が来た時、彼女は突然、変な声を出して笑い始めました。
その様子を50代くらいの女性が見て、悪霊の仕業である事を見抜き、
「イエス・キリストの御名によって命じます。悪霊よ、出て行きなさい!」と祈りました。
すると、その人は倒れて息を荒くして、本人の声ではない変な声で、
「私はここに来ても意味がない。もう一度捨てた偶像を家に戻しなさい。」と言いました。
その時、私はその夫人の側にいました。こんな事を見たのは初めてで、とても驚きました。
どうすればいいのか全然分かりませんでした。
私は、神様の助けが必要だと思いました。
そして皆で心を一つにして、その人のためにイエスの御名によって祈りました。
しばらくすると、その婦人は正気に戻りましたが、
先ほどまでの事は全く覚えていませんでした。
何が起こったのか、全然分からない様子でした。
もし、イエス様が共にいて下さらなければ、
私達は何も出来ない事が、この事を通して分かりました。
また、神様の力が、どれほど凄いのかが良く分かりました。
それまでは、神様の力を聞いているだけでしたが、実際にこの目で見たのです。
私は、感謝せずにはいられませんでした
。主の御名を褒め称えずにはいられませんでした。
この全ての栄光を、天のお父様にお返しします。
毎日の生活の中で、主の愛と力、優しさと憐れみ、
平安と喜びがいつも共にある事を感じています。
もしあなたが、主イエス様の福音を聞いた事があるなら、どうぞ受け入れて下さい。
何故なら、主イエス様はあなたに代わって、十字架にかかりました。
主イエス・キリストを信じる事は命であり、真理であり、永遠の命への道だからです。
あらためて数えてみると、洗礼を受けてから30年が経とうとしています。
しかし、教会生活はその間のほんの数年しかありません。
受洗後、下宿しながら短大へ通ったため、
教会員としての役割も責任も果たせないまま、2年間が過ぎてしまいました。
その後、名古屋・川崎と居住地も変わり、
それと共に教会へ足を運ぶ事もなくなってしまったのです。
旧約聖書はページを開く事もなく、新約聖書も、
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書をせいぜい読んだだけの生活でした。
おそらく、ベサニーキリスト教会と出会わなかったら、どうなっていたか想像出来ません。
意を決して、洗礼を受けた故郷の教会に、
「ベサニーキリスト教会へ転会したいのですが」
と電話をかけると信仰を持ち続けていた事を本当に喜んでもらえました。
教会へ行かなくても聖書は読める。
信仰生活も送る事は出来ると、数年前まで考えていました。
これまで、色々な考え、思想を持つ人と出会い、
早起き会・ものみの塔と家にいれば、チャイムが鳴り、
「参加してみませんか」の誘いに心をかたくなに閉ざしていたのかもしれません。
それが、教会で聖書からのメッセージを聞く機会が増え、少しずつ変わっていきました。
辛い事も、心配事も、全て肩の力を抜いて主に委ねたら良い、
そう思った時、生き方が変えられました。
神様はずっと私を待ち続けて下さいました。
そしてまた、多くの人の祈りに支えられ、
今「ベサニーキリスト教会が私の教会です。」と言えるようになりました。
30年間のうち、教会生活はほんの数年しか送っていません。
そんな私のこれまでの生き方全ての事を知って、
受け入れ癒して下さるお方がいる。
それを感じた時、本当に平安が与えられました。
年を重ねると言う事は、多くの重荷を背負っていく事かもしれません。
それでも、感謝し、常に主の御名を呼び求めて生きていきたいと思います。
共に祈りあえる、教会員の方々と一緒にこのベサニーキリスト教会で・・・・・・。






