あかし

A Testimony by One of our Members


「福音を述べ伝えるということ」

こんにちは、なほです。
今日は素敵なあかしをみなさんとシェアしたくて書きます。
私は個人ブログを日課にしています。
日常のことを書いているのですが、
その中でもここベサニーキリスト教会に
通い出してから“神さま”というカテゴリをつくって、
ポール先生が教えてくれたこと、同じ兄弟姉妹の人から聞いたこと、
自分で感じたことなどなどを書いていくようになってね。
と言ってもホントにつたない文章やねんけども。。。

そしたら本当に大勢の人たちが見てくれてて、
その中で神様のしもべとして働いているんだな~って
嬉しくなることが沢山あります。

今までにも色々メッセージをもらっているのですが、
今回本当に神様の大きなみ手が働いていると感じたのが、

ある地域に住んでいる女の子が、
数年前、お友達に連れられてすこしの間
教会に通っていたことがあったそうで。
神様の話を聞くのはとても好きだったらしいのですが、
自分はなんとなく今のままでいいような気がしていた。
そしてそのうち、教会にも行かなくなって神様から離れてしまっていた・・・と。

そんな折、私のブログをたまたまみつけて
「おもしろいこと書いてあるな~元気をもらえるな~」て思って読んでいたら、
なんと!なほちゃんクリスチャンなの!?てビックリしたらしいのです。

それからさかのぼって全部のブログに目を通してくれたそうなんです。
そこで、その昔教会へ連れて行ってくれたクリスチャンのお友達にも、
私のブログの話をしてくれたそうで。

そして彼女はある日の夜、友達と会った帰り道
神様にお祈りしたそうです。
(※ここからは彼女のメールの転送です)

「もし本当に神様がいらっしゃるなら、
私が分かるようにサインをください、
例えば今から帰ってなほちゃんブログを開けた瞬間に分かるような~」

と軽い気持ちで思いながら帰宅して、PCあけて、なほちゃんのブログ開けた瞬間に
"God Bless ur home"の超可愛い刺繍の写真が出てきてかなりビビりました。

で、次の日会社へ行ったら、同僚の子が
”見て~、新しいネイル”って見せてくれたその柄は十字架でした。

ひえ~と思いながら帰宅して、
なほちゃんブログ(ほぼストーカー状態ですな。。ごめんね)
を開けたらポール先生の動画が!!
(※ちょうど羊飼いと羊の部分でした)

これは見るしかないと思ってみてたら、
”ルカの19の10節を見てください”ってとこで動画が切れてたので、
すぐ○○ちゃんにメールで聞いたら
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」って。

なんだか偶然とは思えないことが続いて、すごくわくわくしてきてます。
なほちゃんブログからメッセージ出まくりですよ!刺激と安らぎの両方。
神様の話も飲んだくれているなほちゃんも、
回りの人たちも皆さん全部ひっくるめてとってもいい感じで、
毎日読むのが楽しみで仕方ありません。
笑顔は笑顔を生むってホントだなって、なほちゃんみてると実感します。

そのうち○○ちゃんと大阪に遊びに行って、
ぜひポール先生の教会に行こうって話してました。

って!!
私が気ままにやっているネットショッピングサイトで彼女がお買いものをしてくれて、

その時に彼女からのメッセージが備考欄に書かれてあったのです。

嬉しくなって、自分の持っていたサブの聖書を商品と一緒に発送したのです。
なんとなく、聖書を送りたくなって。

きっと、神様の力が働いていると思います。
彼女のことを一生懸命にお祈りします!

それまで、自分の中でわかっているけども、
目に見えないものをずっと信じ続けてあほみたい!!
なんて思ってしまう日も最近あって、ちょっと罪とか知らないときのほうが
楽しく生きていけたんちゃうの?なんて考えたりもしてしまってたけど、

彼女を通じて、私自身がめちゃめちゃ励まされました!
やっぱり神様はおって、ちゃんと見てくれているんだと。

天のお父さま感謝します。
アーメン

なほ



A Testimony


Title: クリスチャンとして成長

洗礼を受けて早半年とちょっと…。
初めて証しを書きます新米クリスチャンnahoです。
私は救われた嬉しさや喜びでランランルンルン♪♪♪な日々を過ごしていたのですが、

最近になって“罪”という言葉にものすごく敏感になっていました。

というのも、神さまを知らない時は「罪の意識」も、「罪を犯す」ということも何も考えず過ごしていたけど、
神さまを知ってから、神さまが喜ばないこと、悲しむことはしたくない!と強く思いだしたんです。
…が、その気持ちとウラハラに毎日罪を犯してしまうしょーもない自分に凹んでいました。

いい子ちゃんでおりたいとは違うんだけど、いったいぜんたいどーしたらいいんだろうって。
その頃自分自身の問題でも色々あって(人間関係がしんどかったり、失恋したりetc…)、

もぉイヤや!何で?ってなってしまったり。
その時に同じベサニーの姉妹のみんなに聞いたり、聖書を読んだりしました。

でね、最終的には思いっきり神さまに言いました。「助けて~!!」と。叫び求めました。
そしていままでと明らかに違うお祈りを自分でしていることに気がついたんです。
その先にあったのは、何とも言えない“平安”な心でした。

だってこんな私でも神さまはめちゃくちゃ愛してくれてるのがわかったからです。

これがお祈りしてゆだねる、ってことなんだな~と少しだけ(ホントにちょっとだけやけど)
信仰が成長した気持ちになりました。

これからもいっぱい色々なことがあると思うけれども、
どんな時でも大胆に声に出して「神様~!!」って素直に言える自分でありたいと思います。

そしてベタニアのマルタとマリアのマリアのように、
イエス様だけを私の主として、いつどんなときも信じて歩んでいきたいと思います。
Naho

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イースター

「不埒なキリストの弟子」

今日は素晴らしいイースターでした。イースター礼拝に加え、転会式、洗礼式、食事会、墓前礼拝と、盛り沢山の日曜日でした。キリストが復活された日をお祝いする日ですから、多彩なプログラムと共に本当に充実した主日でした。

 実は、告白します。クリスチャンである私は、実は今日のイースターを迎えるにあたり「良いクリスチャンらしく」ちょっとは主イエスに感謝の気持ちを表すために、主が十字架につけられた金曜日から復活されるまでの日曜日の3日間だけは禁酒しようと考えました。飲酒が悪いとは言いませんが、「酒と主イエスを選ぶとすればどちらを選ぶか?」と考えると、「良いクリスチャン」としては勿論3日間ぐらいは飲酒をやめ、主イエスを選んで禁酒できるはずです。毎日晩酌をする私も「キリストのために禁酒はできる!」と考えていました。

 禁酒初日は木曜日の夜。この日の夜に飲めば主が十字架につけられた金曜日まで酔っぱらう事になるので、禁酒を願う「完璧なクリスチャン」としては木曜日の夜から禁酒するべきです。でも不埒な弟子である私は、「早朝から長時間仕事をした私に対し、その労働を主は祝福して下さる。長時間の仕事の後の酒一杯は、主が下さる祝福だ!感謝して頂けば良い。」と決めつけ、木曜日の禁酒は失敗。

 金曜日の早朝レトリバー犬の息子、J君を連れて散歩中、情けない気持ちでいっぱいでした。「今日こそは主が命を私に捧げ十字架にかかって下さった日なのだから、禁酒は問題なく出来る」と確信していましたが、結局夕方のJ君散歩時には「今日も、主に感謝して酒を頂けば良いだろう。酒も神様が我々に与えて下さったもの。」と自分で納得して、禁酒は断念。もうここまで来ると禁酒の「断念」は、いともたやすい事で、もちろん土曜日の夜もお酒を頂きました。

 私は不埒なキリストの弟子。たかが3日間の内、1日も禁酒できませんでした。このような私を、本当にキリストは受け入れてくれているのでしょうか?「私の弱さを十分理解した上で、キリストはそれでも私を愛して下さる。」と言うのは簡単で、安易でしょう。そればかりか、自分の弱さをキリストの愛で正当化しています。キリストもその深い愛を言い訳に、自分を正当化する弟子を一番嫌う事でしょう。

私は私へのキリストの愛に心から感謝しながら、その愛に応えることができない自分をどうする事も出来ません。自分自身の行動を、自身が制御できない情けなさでいっぱいです。でも今日のイースターに起こった様に「死んだキリストが生き返る」と言う、我々人間の常識や科学知識の範囲で理解する事は「不可能な事」を、「可能」にする主が本当に存在するのであれば、私の弱さなどいとも簡単に解決してくださる事はいとも簡単です。

 私たちの常識をはるかに超える主に全てを望み、私の数々の問題を全て委ねて、全能の主と共に歩んでいくことを、今日新たに決心しました。




A Testimony

こんばんは。本当に久しぶりの書き込みです。
 一年前から朝になると落ち込み、無性に不安になったり、心臓が圧迫されたり
するようになりました。昼から夜にかけて落ち着いてくるので、夜中に洗濯をしたり
掃除機をかけたりする生活が続いています。そんな私が今平安になれるのは、聖書や
信仰書をむさぼり読むこと・・そして読みながら祈ること・・です。
 どこでそれをするかと言うと(信じ難いでしょうが、)マクドナルドなんです。人がいっぱい
いるのに、何故かそこに私の空間がちゃんとできるのです。不思議ですよね。(ちなみに今ナゲット
5個入り100円です。^^)

 今晩、テレビで宇宙飛行士についての番組がありました。それを観ていて、ある本を是非紹介
したくなりました。「それでも神は存在するのか」といタイトルで、奥さんがクリスチャンになった事
をきっかけに、あるジャーナリストが哲学者や宗教学者達にインタビューして回ってまとめた本です。
私にとっては、信仰を助けてくれる本で、2ヶ月前にも読んだのですが、再度読み始めました。
 「今ならできる!やろう!」と思ったらすぐ行動に移さないと何もできない私になってしまって
いるので、すぐPCの前に座りました。

以下、ウオルター・L ・ブラッドリーという哲学博士にされた「生命は偶然にできたか」という
インタビューに対する回答からの抜粋です。

「生命有機体を正しく生成する可能性は数学的に、もう天文学的な数字になっていましてね。・・それは10の
後ろに0を60個足した分の一ですよ。地球が生命誕生に必要な最善、最適の状況にあったとしても、
それだけでは生命は誕生しないのです。・・
ベーへ(リハイ大学の生化学者)は偶然に百個のアミノ酸が結びついて、ひとつのたんぱく質分子ができる
可能性は、目隠しをされた人が、サハラ砂漠のど真ん中で、指定された砂粒一粒を拾うようなものだと、
しかも、それが一回ではなく三回続けて成功するようなものだと表現しています。・・つまり生命体が偶然に
発生する可能性はゼロだということですよ。・・ 科学者の間では、このような任意偶然説はすっかり否定
されています」
初めて月面着陸を果たしたアームストロングは、後にクリスチャンになったと聞いています。
このジャーナリストも、たくさんの人たちへのインタビューの後、クリスチャンになりました。

 無から有を造った方がおられる。そしてこの方が私を造って下さった。私は偶然にできたのではない。
だとしたら、私を造って下さったそのお方は、私のことをちゃんと知ってくださっている・・。
絶対、知ってくださっている。
現実だけを見ていると、先の見えない不安でいっぱいになります。でも、この創造主(この創造主の本:聖書)
の世界観にいると、私は、心が、霊が平安になってくるのです。
私は今、眠剤をもらって飲んでいます。多分、安定剤も含まれているようで、それを飲んで寝ると目覚めが
ましです。

 これを読んでくださった皆さんの中に、不安の中におられる方がおられるでしょうか?
私の大好きな聖書の言葉をお送りします。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこからくるのだろうか。
私の助けは天と地を造られた神からくる。詩篇121:1・2」
では、おやすみなさい。明日も恵みの一日でありますように・・・。           RS


 
A



Condor Sakata's Testimony

泉南郡熊取町 コンドル坂田


「大地の波動を音で伝えたい」
☆友人との出会いと絆は最高の宝物☆

ひとにぎりの土で出来た小さなオカリナが私の人生を変えた

オカリナとケーナの演奏を始めて、今までとは全く違う人々に出会い、その輪がどん
どん広がっています。
多くの人々との心のふれあいが、私に豊かな人生と、感動と喜びを与えてくれていま
す。

仕事に行き詰まりを感じていた頃、「あなたも一年で『コンドルが飛んで行く』が吹
ける」
という新聞広告を見て、通信教育に申し込みました。以前、アマチュアバンドをやっ
ていたこともあり、
ギター、マンドリン、トランペット、ピアノなども出来ますが、オカリナは集中して
練習すると、
3ヶ月で吹ける様になりました。自分を忘れて、思いっきり打ち込めるもののあるこ
とが、
今、自分の人生を支えてくれています。

音楽を仲立ちとしての関わりあいが相手の警戒心を解くのか、普通だったら話もして
くれないような
人たちが話かけてきます。長居公園ではインドネシアから来た仲間も出来ました。
足元に空き缶を置いて、インドネシア語と日本語で「日本人の心を!」と書いて演奏
していると、
5千円~2万円近いカンパが集まります。カンパでいただいたお金はすべて、彼らに差
し上げています。

大阪城の花見の時期は結構いい収入になります。私はそこで大道芸人の仲間入りが出
来たと思っています。
フリーマーケットでは、針金で作った作品を家族と一緒に実演販売していますが、
その時、オカリナを吹くと客寄せになります。それを見た人から、
他のフリーマーケットでも吹いてほしいと頼まれ、アベノ芸術市、京都百万遍手作り
市などにも出かけました。
大阪市内の公園のイベント、区民ホール、幼稚園…と口コミでどんどん演奏する場所
が広がっています。

公園で寝泊まりしている少年や少女が演奏を聴いて寄ってきます。「もう一回吹いて
ほしいよ」とか
「おっちゃん、プリクラあげるわ」と言ってくる子もいます。賛美歌を吹いていた
ら、
「また教会に行ってみようかと思います」と言ってくれた老夫婦もいました。

人は、大地から生まれた楽器の澄んだ暖かい音色に癒されるのでしょうか。
消えゆくはかなさに、人生を感じるのかもしれません。メロディーの美しさに、目を
閉じて静かに聴き入っていると、
アンデスの風の音が、大地の波動が、癒しとなって魂に響いてくるのです。

健康のために、1年間トレーニングをして、フルマラソンに出ました。オカリナを始
めて13年。
自分の生き方を変えたともいえる楽器です。

最近、泉南市の山田家(江戸時代からの代々庄屋、豪農屋敷)にて、心に残る演奏会
をしました。
パートナーの娘さんは心の病で家に閉じこもり8年間ピアノ奏せず、親とも音信不通
にて、母親から頼まれて
数ヶ月前より接触を始めて、引き出すことに成功しました。
お客様に喜ばれ、盛大に終えることが出来ました。素直な娘さんであり、病を克服す
る機会となれば幸いです。
力量不足の私も少しは役に立ったかな…?



御言葉の力

最近よく、心の風邪をひきます。
自分の思い願ったこととはかけ離れた方向に進んでいると感じて、焦って不安になったり苛立つこと、ないですか。心の中に溜まってくる不安・不満などが少しずつ風船のように膨らんできているときに、身近な人のささいな言動が引き金になって、BANG!! (直接その人に関係ないことについての不満をも含めて、)すべてその人が破裂させたかのように、抑えていた他の思いが相手に向かって口からとびだしてしまい、余計なことをいい、後味の悪い恥ずかしい思いをします。

その後、(この風邪の熱が下がって)落ち着くまで少し時間がかかります。私の場合、この過程で、まず自分の正当化に走ってしまうので(白血球が活躍?)、最悪です。学習能力が低いのか、私は何度もこのような怒りの罪を繰り返してしまい、そのたびに聖書の御言葉を思い出し、もっと心が聖霊さまできよめられますように、と祈りもとめています。

よい忠告だとわかっていても、人に指摘されると、ムっと感じて素直に聞き入れるまでに時間がかかるのですが、不思議なくらい、聖書の御言葉は、速くよく効きます。神様は聖書を通してやさしく語って教えてくれるから・・・だと思います。

もし、あなたが、私のように風邪をひいては薬で治すことを繰り返しているのなら、ぜひ一緒に祈りましょう。また、風邪を引かないように手洗い・うがい(デボーション、兄弟姉妹との祈りや奉仕を通しての交わりと分かち合い、礼拝、等)などの予防も積極的に努めましょう。

mn



試練と恵み

8月の末、自転車で走行中、遊歩道のポールにぶつかり右足親指骨折というアクシデントに見まわれました。
今回が初めての怪我ではなく、2年前にも自転車での左手親指靭帯断裂の怪我を体験し、それから遡ること2年前(2003年)
には乳癌の手術と2年おきの災難続きに見まわれましたが、今回の骨折は前回体験した試練より何倍も深い痛みを体験しました。
まさしく骨折に伴う身体の痛みだけでなく、何度もこの身に起こる試練に今回はさらに霊的な痛みが加わりました。
神様がとても遠くに感じられ、私の存在も否定的になり悲愴感に苛まれました。でも神様は弱った信仰も心も体も全てご存知でした。
神様は今まで以上に祈りの機会を与えようと導いておられるようでもっと近づきなさいと語られているようでした。何度も体験した試練の中にあっても癒しがありました。大きな禍からも遠ざけてくださる主の御臨在があります事ももう一度
今回の怪我を通して神様の憐れみと信仰の油そそぎを頂きました。またたくさんの「気づき」も頂きました。
詩篇77 10~12 そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」
私は主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいをわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

この御言葉に平安と力を頂き、さらにこの御言葉に大きな慰めを頂ました。

コリントⅡ12 9 しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたし
の力は弱さのうちに現れるからです。

ご報告が遅くなりました。ハレルヤと喜びをお知らせします。

9月26日、ギブスが外れました。4週間でギブスが取れるとは思ってもみなかlった経緯にまさにハレルヤと感謝を叫びました。
主の癒しの御業はそればかりではなく骨折して1週間めからももう現れました。特に1週間~2週間は骨折した部位は
ずれ易いとのことでしたがそれも全て守られました。
主の癒しの導きは人知をはるかに越え、試練の中をはるかに越えた主の恵みがあり、信仰の歩みを確かなものへと
導き共にいて下さる主の栄光があります。


この骨折に際して,多くの癒しと執り成しのお祈りを捧げてくださいました事心から感謝申し上げます

                                   YH
 

 



キリスト者として

キリスト者として

わたしが救いを経験した時の感動は衝撃的でした。
心にずっとポッカリとあいた場所があってその場所は
何にも埋める事は出来ませんでした。
物、出来事、家族…
なんで?なんで?わからん?
わたしの何が悪いの?
教会に通い出したある日。
家で掃除機をかけてたら涙がボロボロ出てきました。

マタイ27:46
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバタクニ」と
叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったの
ですか」という意味である。

その時この、みことばが飛び込んで来ました。
神さま。ありがとう。
イエスさま。こんな私の為に。ごめんなさい。
神さまの愛を心から感謝した瞬間でした。

ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。

その時から、この感動を家族、友人、先輩、後輩。
みんなに経験して欲しい!
その一心でした。

箴言19:2
熱心だけで知識のないのはよくない。
急ぎ足の者はつまづく。

あらゆる所であらゆる人に神さまの話しをしてました。

箴言16:2-3
人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。
しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。
あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

神さまの事を知って欲しいと言う自分の欲だった様に思います。
本当に1人でも多くの人に神さまを知って欲しい。
その思いは変わらないけど私の思いではなく神さまのみこころを
伝える事が出来る者となりたいと願います。

テモテ2:1
そこで、まず初めに、このことを勧めます。
すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのた
めに願い祈り、
とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

祈りながら過ごす事を出来る自分でありたいと願います。
そして神さまの事を安全な環境で思える立場に。
教会、周りの人、家族を与えて下さった事を感謝します。

どうか、この気持ちを忘れないようにと願います。


mck



本当に大事なこと

本当に大事なこと

 『忙しい』ということばは言い訳にもってこいですが、好きではないので使わないで、代わりに『することが多い』というようにしていました。 では、なぜ『することが多い』のでしょうか。 『しなければならないこと』と『したいこと』、『どうでもいいけど気になること』など、人それぞれにいろいろなことがあります。 私の場合はこれら3つに、『したくないからギリギリまで放っておく』が加わり、それはもうたいへんな状況でした。 この7月は、2週間を南ノルウェーで過ごすという機会に恵まれました。 ちょうどノルウェーの夏休みの時期とも重なり、短い夏を外に出て、家族や友人とゆっくり楽しむ人々の暮らしを見ることができました。 見ていて思ったのは、彼らは人間には休息が必要であるということをよく知っていて、それを実行しているということでした。 私の滞在した南ノルウェーでは、朝4時頃から明るくなり(実際にはまだ寝ていましたが・・・)、夜10時半に夕焼け、11時頃に日没というような1日で、到着した次の日から腕時計をはずしました。 ゆったりとした休暇に、いろいろな方との出会い、2回出席した日曜礼拝のメッセージで考えたことは、『本当に大事なこととはなんだろう』ということでした。 旅先ですから、日常生活のさまざまな作業や働き、責任がなく、気楽なのは当然なのですが、それにしても大阪での日々の暮らしがバタバタしすぎていることがとても気になりました。 そして『なぜそんなにすることが多いのか』と思ったのです。 旅行に出るときは、所持品はカバンに入るだけになり、そこで訪れたい場所やしたいことも限られた時間の中でしなくてはなりません。 自然と、本当に大切なもの、必要なもの、どうしてもしておきたい、または行って見ておきたいことだけを選択することになります。 この選択を日常にすることの必要性を実感しました。 また、最後にお世話になったオスロの方は、以前に日本でも宣教師として滞在されたことのある方で、『日本人の忙しさ』をよく知って折られる方でしたので、ことあるごとに『ゆっくりしてくださいね。 ここは私にとってとてもゆっくりできるところだから、あなたたちにもゆっくりしていただけるとうれしいです。』といってくださいました。 おことばとおり、ゆっくりさせていただき、広くて美しい庭(整えられ過ぎていない、快適なお庭)で聖書を読み、みことばを黙想しました。 本当に大切なことはこのことです。 わかっていながら『すること』を優先し、おろそかにしていたことを、日常と切り離された時間と場所で実践することができました。 次の私のチャレンジは、この大事なことを日常生活の場で、続けていくことです。 そのためには正しいものを選択するという知恵が必要です。 この知恵も与えてくださいと祈りつつ、自分の置かれた場所でいつも主とともに、そしてゆったりと暮らしていくことを願っています。

                                       yamakyo




キリスト者のあかし

キリスト者

私は、強制される事を嫌がり、自由を好みました。
でも、私が望む自由は、自分勝手でした。
結果、とても不自由で思うように過ごせません…
『大人って、なんてしんどいの?』と日々、過ごしてました。
キリスト者になって今、私は真の自由を得る事が出来たように思います。

あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に
用いないで、
神の奴隷として用いなさい。   Iペテロ2:16

感謝です。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、イエス.キリス
トにあって神が
あなたに望んでおられることです。 Iテサロニケ:5:16~18

神さまは、『いなさい』『しなさい』と、おっしゃっています。
『したほうが良いと思うよ~』とは、おっしゃいません。
…が、私は試練の時、神さまからの訓練を受ける時。
喜んでいれません。祈れません。感謝できません。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 詩編55:22

落ち込んでいる時は、本当に孤独です。でも神さまが心配してくださる。
重荷は主にゆだねよう!
あ~ なんて感謝な事やろう。
でもでも、私って正しい者なんか、違う…
うん。全然、違う。罪だらけや。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
                      ガラテヤ5:22~23

祈ろう。祈り、聖霊さまで満たされたいです。自分では無理です。
どうぞ、御霊の実が確実に自分の中で実を成らす様に。
チャレンジさせてください。と…

キリスト者として、過ごせる毎日が本当に幸せです。
まだまだまだ……な、私ですが、みことばに立って過ごせる毎日で
ありたいと願います。

                      mck



キリスト者のあかし

数日前に経験したことをお話したいと思います。

同じ社宅に住む小学校2年生の男の子が、同じく2年生の女の子を訪ねてきたところに居合わせました。
2人の会話から察するに、男の子がいっしょに帰ろうと約束したのに、女の子がその子を放ってほかの友達と走って帰ってしまい、
その理由を訊きにきたということのようでした。
男の子はよほど悲しかったのでしょう、眼にうっすらと涙をうかべて、自分の気持ちを伝えていました。 
女の子のほうは少しバツの悪そうな顔をしながら、「約束した覚えはない」と答えていました。
結局、『自分がされて悲しいことを、ほかの人にしてはいけない』ということをお母さんに諭された女の子が、
ごめんなさいと謝り、男の子は少しほっとしたような顔をして、階段を上り家にもどっていきました。

約束をしたのか、したという自覚がなかったのか、それはわからないことですが、あいまいなままにしないで、
気持ちを伝え、また相手の考えを確認しようとした男の子の純真な思いと、素直にあやまった女の子の気持ちとを、私はほほえましく感じていました。
また、自分の勝手な解釈で事態を納得しようとしたり、なかったことのようにふるまおうとしたり(もちろん、それもときには必要なことでは
あるのですが)する自分の思いを省みたりしていたのです。
が、ここでもっと大事なことに思い至りました。 それは、この男の子のように、私は神さまを悲しませてはいないだろうかということでした。
 
聖書には、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』という教えがよく出てきます。
申命記6:5や、第2列王記23:25に、また、聖書のなかでどの戒めが一番大切かと訊かれた主キリストが、
『神を愛すること、そして隣人を愛すること、これ以外に大事な命令はない』とお答えになる場面があります(マルコ12:29-31)。
『御子キリストのいのちと引き換えにしてまで、罪を赦し、愛してくださっている神さまと交わした、神さまを一番にして生きるという約束』を、
私は『したつもりはない』とか、『していない』などと、のらりくらりとかわしては神さまを悲しませてはいないかと思ったのです。

残念ながら今の私には、『悲しませてはいない』と、言い切る自信がありません。
悲しませるようなことをしていた自分を赦してくださいと、この女の子のように素直に謝りたいと思います。
そして、決して変わることのない神さまの約束を信じ、神さまへの約束をいつも守る者でありたいと願い、その力をも与えてくださいと
祈りたいと思います。

 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。   ヤコブの手紙 1:17

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。    ヘブル人への手紙 13:8

 yamakyo



御言葉の力と祈りと神様の愛

...愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐えしのびます。
愛は決して絶えることがありません。...(コリントI 13:3-8)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリントI 13:13)
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。(ローマ14:3)
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:6)
これらは、私が受けた今日の御言葉です。(落ち込みから立ち直りました。)

聖書を開き、御心を求めて読むと、いつも、他にもたくさんの御言葉が私を励まし、へりくだらせ、希望を与え、喜びと感謝で満たしてくれます。
神様は私達に、「祈り」という手段を、同じ(公平な)恵みとしてを与えてくださっています。クリスチャンはこのことを知っているから本当にラッキーです。兄弟姉妹達に祈られていることを喜びませんか。兄弟姉妹たちのために自分も祈ることができることを喜びましょう。「祈り」は神様との会話の手段だけでなく、兄弟姉妹たちと(神様が喜ばれる)良い関係を築く手段でもあるんですよね。

前述の御言葉の「愛」のすべての働きを全部自分が活かせてできているかと問うと、いっぺんにできないことばかりで恥ずかしくなります。でも、ひとつでもふたつでも「そう在ろう!」と思えるのは、神様が明確に語ってくださっていることを、私は知っているから。

神さまの愛が私の心を満たし強めてくださいますように。そして、同じ愛があなたの心も満たし、強めてくださいますように。そして、今日も私のために祈ってくださったあなた(兄弟姉妹)に心から感謝します。また、私も今日、あなたのためにも祈っています。信仰の友を与えてくださった神様に感謝します。私達の主、イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

mn




神様の方法

神様の方法

先日、「ジェイムズ聖地へ行く」と言う映画を観ました。アフリカ
の村出身の敬虔なクリスチャンで純真無垢な青年ジェイムズは、村
の次の牧師に任命され、エルサレムへ巡礼の旅に出かけました。イ
スラエルの空港で不法労働者と間違われパスポートを押収されて留
置所へ。その後、あらゆる試練が彼に…はてさて、ジェイムズは、
どうなるんだろう?…はい!行きましたとも!エルサレムへ。それ
が、えっ!こう言う方法で?と驚く形で行く事になるんですね。
私たちは、自分で色々と計画をします。毎日、毎週、毎月、毎年。
そして、祈ります。しかし方法や時は神様の御手に委ねる事なんで
すね。神様が私を愛し私の小さな小さな成長をする為に試練の時を
与えて下さってると確信し真の平安を感じながら過ごしたいと思い
ます。「ジェイムズ聖地へ行く」機会があれば、ぜひ、ご覧ください。

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主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(詩篇103:2)

1月19日・20日は、娘の中学入学試験が連日あり、四半世紀ぶりに緊張した3日間を過ごしました。この間「祈りはきかれていて、すでに受けている。」と確信と平安はずっとあったと思いますか?

実は、試験前夜は、子供達を早く就寝させて、自分自身も短く祈った後、いろんな思いをめぐらせながら、11時過ぎには就寝しました。いつもなら朝6時まで熟睡するのに、この夜は2時頃から一時間毎に「あっ寝過ごした?」と目が覚め、5時半には早々と起床。(苦笑)めちゃくちゃ寒い中、朝早く娘と出かけて行きました。約4時間、受験校のチャペルで試験終了まで待機しました。
2日目はお弁当持参だったので、さらに早起きで(^ ^;)おまけに5時間。感謝なことに、やはりチャペルで待機。ただ、ほとんど立ち上がらずにいたので、腰がおかしくなりました...
この日、10時30分から一人で心の中で礼拝をしました。(教会の皆さんと一緒に礼拝している気持ちで、いつもの日曜礼拝のとおりに。)これまで励まされてきた多くの御言葉を思い出しながら祈りました。賛美と祈りがたくさん次から次へと湧いてきて、だんだん期待と希望と喜びと感謝とが膨らみ、賛美を周りに聞こえないようにしながらも小さな声で歌ってしまうほどに。(退屈しない母 =3)
ところが、試験が終わり戻ってきた娘が「難しかった。社会と算数は想像以上に難しかった。うーん、やばいかも...。」と。
翌日の発表まで、自分にも娘にも「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせながらも、沸々と不安の泡が膨らんでは弾けてを繰り返し。「やっぱり、難しすぎたのかな。→でも祈って導かれて選んだ進路なんだけどなぁ。→大丈夫。→まてよ?自分の願いを導きと勝手に思い込み?→もし試験に落ちたら!→どうやって娘を労わってあげようか?塾の先生にもらった神社のお守りは偽神様のものだから要らん!私にはイエス様がいる、と触れずにいた娘。自信が無くなるだけでなく、神様への信頼も無くすかも?。→ああっ、もう決まっていることをあれこれと思い煩うのはやめよう。→希望も期待も不安も恐れも神様に委ねて大丈夫と御言葉をいっぱいもらってたんだから絶対大丈夫。→感謝!」目まぐるしい思考変化の母を尻目に、当人は、試験が全部終わって、「完了」モード。まんがやTVに没頭。
翌朝・・・合格発表を見に学校へと歩くのが、まるでジェットコースターの最初のガタンガタンとレールの頂上まで上る時の気分。予定時刻の5分前に校門をくぐると、すでに合格者番号が貼り出してありました。「やったー!よかったね!神様ありがとう!」

以上の実況中継、いかがですか?すごく興奮と忍耐と緊張と感謝と喜びに満ちた3日間でした。

今朝、下の娘が「いつも喜んでいるんでしょう?いつも祈るんでしょう?そしていつも感謝だったね?CSの先生にきいて知ってるよ。」と急に思い出したかのように、登校前に笑顔で私に尋ねてきました。
「ああ、子供達は神様の言葉をちゃんと覚えているんだ。神様や家族だけでなく、教会の皆さんの愛を受けて育っている。感謝、感謝。」 神様が共にいて導いてくださること、いつも忘れずにいたいです。



神さまのご計画

先日行われましたNFL(アメリカンフットボール)の試合をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか? 現地時間2月3日のスーパーボールの出場をかけて、4チームが激突しました。 2試合のうちのNYジャイアンツ対GBパッカーズの試合は、本当に劇的な一戦になりました。
 氷点下30度にもなる寒さの中、両チームがタッチダウンを取り合うシーソーゲームが展開されました。
ジャイアンツのキックが決まれば勝つという状況で、キッカーがゴールをはずし、なんと延長戦にもつれこんだのです。 アメリカンフットボールの延長戦では、先攻がだんぜん有利だそうです。 コイントスで先攻を取ったのは、パッカーズでした。 
『あ~ぁ、終わったな。 パッカーズの勝ちか・・・』
アメフト素人の私は内心そう思いながら見ていました。 しかし絶対有利のなかで、パッカーズはパスをカットされ、攻守が入れ替わりました。 そして試合は、キックをはずし続けたジャイアンツのキッカーの、長距離ゴールが決まり、ジャイアンツの勝利で幕を閉じたのです。 
私たちは見える状況や経験から、結末を判断します。 いろいろな計画を立てて、そのとおりに物事が進んでいくように考えてしまいがちです。 しかしいつもそうなるとは限りません。 いや、そのとおりになることのほうが少ないでしょう。 この試合を見ていて、聖書のことばを思い出しました。

   人は心に自分の道を思い巡らす。
   しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。  箴言16章9節

私には一瞬さきに何が起こるのかを知ることもできません。 しかし歩みを確かにしてくださる神さまがいてくださいます。 限りだらけの自分の力に頼ることなく、導いてくださる主とともに歩む日々でありたいと思います。                               yamakyo



アメリカンアイドル

先日、いただいたガイドポスト(Guideposts)という小冊子を、通勤帰りに電車で読んでいました。皆さんは、最近アメリカのTV番組で「アメリカンアイドル(American Idol)」という、昔の「スター誕生」みたいな番組をご存知ですか?我が家は家族で時々観ては、「あの人、絶対勝ち抜く!」とか、「うっわぁ、むちゃくちゃ上手い!」とか言っては盛り上がっています。ガイドポストには、トップ6にまで勝ち残った、ケリーという女の子の証が載っていました。訳すると長くなるので、ポイントをいいますと、ケリーは幼少期から、母親の失踪と、父親の暴力と度重なる入出刑務所という辛い経験の中、祖母と毎日歌った賛美歌が、子供だった自身の心の重荷を取り除き、勇気と元気をもらっていた、ということでした。彼女の証を読んで、涙が出ながらも、神さまの愛をうれしく思い、すがすがしい気持ちでいっぱいでした。電車の中でひとり涙して、にやにや笑って・・・っ気持ち悪いっやつ・・・と思われたかも(^^;)

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神様の愛と優しさと恵みを世界中の人々に知らせたい/陳 迎春 姉

 私は五年前、中国から来ました26歳の主婦です。
神様の愛と優しさを体験した事がいっぱいあります。

 二ヶ月前のある日の朝、
私の五歳になる子供が突然片方の足がとても痛くて、
歩く事が出来なくなりました。
どうしてこんなことが起こったのだろう
子供は何もしていないのに、おかしいと思いました。
でも、神様が共にいて下さる事を信じていますからとにかく信仰を持って、
神様の御前で自分の心配している事と助けて下さる事を祈りました。
その後は何も心配する事もなく、足が治るのを待っていました。

 二日後の朝、子供が目を覚まして、
「ママ、足が治ったよ。ぜんぜん痛くない!」と言いました。
本当に信じられませんでした。
その時、神様の愛と優しさが良く解りました。
神様を賛美しました。
 感謝と感動の気持ちを毎日持っています。

 神様は私達のお医者様である事が解りました。
ほかにも、どんな困った事でも神様に助けてもらっています。

 神様の愛と優しさと恵みを、世界中の人々に知らせたいです。
もし、あなたが今、このページをご覧になっておられましたらあなたの心の中で、
神様があなたの名を呼んでいるかも知れません。
もし、あなたがいろいろな事で困っていましたら、
そして神様の声が聞こえましたら、
神様の愛と優しさを体験なさるためにどうぞ、
神様の家、ベサニーキリスト教会へぜひ、お越し下さい。



TVニュース”生き方を変えた男たち”を見て/山崎 千恵子姉

 先日、元暴走族の青年が神学生になったドキュメント番組を見ました。
彼は少年院の中でクリスチャンになる事を考えました。
それは、昔から「愛されたい」「ちやほやされたい」
という思いで悪い事をし愛され続けるには、
一生涯悪い事をし続けなければいけない事に空しさを感じていたからでした。

 その彼は、「今までの自分の存在で、仲間の人生をも悪い方に変えてしまった。
人を刺したり、シンナーを吸わせたり、多くの罪深いことをして来た。
だから、これからは人一倍『ええ事』をしたいと思った。
牧師になって、『イエス様に愛されているんや』と皆に伝えたい。」と言って、
神学校に通っています。

 そんな彼の昔の仲間は、
「今まで大阪一の『悪』やった人間が、真面目になれた事は凄い!」
と話していました。
「あなたも、真面目になろうとは思わないの?」
と言う質問に対し昔の仲間は
「今まで自分の生きてきた道がこれだから。変わりたくても変われない。」
と答えていました。
その言葉が、私の胸に突き刺さりました。
私も、変わりたくても変われなかったからです。

 私は、非行少女ではなかったのですが、
人に迷惑をかけたり、傷つける事に罪意識を持たない少女でした。
高校では、友達の信用を失い、教会へ来ました。
苦い思いをして、それでも懲りずに失敗する私にイエス様は
「失敗するところも含めて、あなたを愛しているよ。」
と心に語ってくれました。
いろいろと辛い事もありましたが、そんな出来事や、
暖かい人達との出会いを通して神様は人を思いやる事の大切さを教えてくれました。
そして、少しづつ人の痛みが解る様になって来ました。

 今、私を本当に理解してくれる友達が周りにいます。
人は一人では変われません。
でも、イエス様の愛を知った時、愛のある人に変えられていきます。
これからも、イエス様の愛の中で生き、愛のある人に変えられていきたいです。
だから私は、教会に通っています。


   『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。』
   聖書の中のイエスキリストの言葉。



この世でたった一人の天才/大東 章男 兄

 坂本龍一氏の奏でるメロディー「エナジーフロー」が
今般オリコンの一位に輝いています。
人の疲れを癒す曲を作って欲しいと言う依頼に、見事に答えた作品ですね。
聞いていると、確かに、疲れが取れるような気がするのだから、
作った彼は、まさしく天才であるかも知れません。

 「天才」私は少々、この言葉にこだわります。
「天才」・・・・天から与えられた才能、天国からの才能つまり、
神様から与えられた才能と言う風に考えられますね。

 ある人が、神様から特別に与えられた賜物ではないでしょうか。
時には画家であったり、作家であったり、また映画監督であったり、
いろんな分野に、それを与えられた天才たちがおられます。
彼らは人を感動させたり、熱くさせたりしてくれるのです。
やはり、天(神様)から才能を特別に与えられた人は凄い。
つまり神様って、凄い。
私達、普通の人を通してでも、感動を与えて下さいます。

 さて、しかし、その天才達にも出来ない事があります。
それは、私達を罪から救うと言う事です。罪を赦すと言う事です。
私達は普段の生活で、人に嘘をついたり、人を傷つけたり、
あるいは本当に法的に犯罪を犯す事もあるかも知れません。

 私は正しく生きている、清い人間だと思っている方はいらっしゃいませんか。
もし、いらっしゃるなら、それは一体、誰が正しいと決めたのか、お考え下さい。
あなたの周りの友達ですか?
それとも、家族ですか?
いずれにしろ、正しさの基準もバラバラですし、そんな権限もありません。
まして、自分自身が、勝手に正しいと決めている、なんていうのは論外でしょう。

 嘘をついて、罪の意識に駆られた事はないでしょうか?
苦しみ悩むほど、人を傷つけた事はないでしょうか?
よく考えてみて下さい。自分の中の罪の事を。
そして、もし、それに気づいたなら、それを赦して下さる方、
そこから救い出して下さる方を、捜し求めて下さい。
行き着く所は一つしかありません。
それは、私たち人間を創造された方、
そして、私達が生きて行く上で、正しい、正しくないを決められる方、
つまり父なる神様の所です。

そして私達の罪のために、その罪を全部背負って、
十字架にかかって下さった父なる神の子、イエス・キリストの所です。

 イエス様は、私達を感動させたり、熱くさせたり、
生きる勇気を与えて下さるだけでなく、私達の罪を赦し、
罪から救い出して下さる事の出来る、この世でたったお一人の天才なのです。

 私達の教会、ベサニーキリスト教会へどうぞお出で下さい。
そして、神様の愛に触れてみて下さい。
このページをご覧になっておられるあなたのお出でをお待ちしています。

  あなたも神様の愛に触れてみて下さい。



主に信頼することの幸い/小林 妙子 姉

心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:5〜6

 この聖句には、私達が神様に期待されている進行の歩みの姿が書かれています。
つまり、「心を尽くして主により頼め。」「自分の悟りに頼るな。」
そして、「どこにおいても主を認めよ。」の三つが勧められています。
そうすれば、「主はあなたの道をまっすぐにされる。」という
本当に幸いな祝福が約束されています。

 しかし、教会も、クリスチャンも、この地上にあって未完成のものです。
絶えずサタンと戦い、その都度、主の助けを頂き、失敗しては
悔い改め、また失敗しては悔い改めるのが、私達の歩みだと思うのです。

 私達が完成するのは、主が再臨され、新しい天地が到来する時なのです。
この世に問題のない教会やクリスチャンは存在しませんが、
それに勝利させ、すべてを益に変えて下さる、十字架の赦し・力・解決があると信じます。
様々な問題提起はありますが、それを乗り越えた時、必ず、主の御業が現れるのです。

 大切な事は、主は私達を日々、新しく創造して下さる方であると言う事なのです。
すぐに目に見える変化はなくても、忍耐を持って、主に信頼する事の幸いを
十分に味わいたいものだと思います。



ディボーションの恵み/サンデ・レイコ 姉

「ピピピピ・・・・」目覚し時計の朝を告げる音。
「今日も、主が造られた一日。私はこの日を喜ぼう。」
と起きる事が出来たなら、素晴らしいのですが、
数ヶ月前の私は、まるで大根かゴボウを土の中から引きずり出すようにして、
おきあがる日々が続いていました。
「私はクリスチャンなのに・・・・、まして教職を手伝う者なのに。」
そんな焦りの一方で、心を占領する虚しさに、
自分ではどうする事も出来ませんでした。
私のような者は、生きていてはいけないとさえ思えて来るのです。
そのような中で、私を支え、その一日を喜びを持って過ごす事が出来たきっかけは、
ディボーション(個人礼拝)を持つ事でした。
とりあえず、虚しさをそのまま受け入れ、朝、とにかく机の前に座り、
聖書を開きディボーションのガイドブックを開くのです。
「天のお父様、御子なるイエス様、ご聖霊様、三位一体の神様・・・・」
と主のご臨在を宣言します。

この主なる神様に向かって呼びかける言葉は、本当に大切だと思います。
全ての権威を持っていらっしゃる方の前に立つ事が出来る特権の凄さを、
この宣言は思わせてくれます。
ちっぽけで貧しい私が、
聖なる聖なる万軍の主の前に立っているイメージが頭の中に浮かびます。
すると、朝からの虚しさが徐々に消えて行くのです。
「神様が知っていて下さるのだから、全てが大丈夫なのだ。」
と平安になってくるのです。
全てが嬉しくなって来るのです。

私は今、「幸いな人」と「リビングライフ」
というディボーションのガイドブックを使って、礼拝しています。
二冊も使うと一時間から一時間半の時間を必要とします。
着替えもせず、チャンチャンコを着て座っていますので、
時々「掃除、洗濯、アレコレ・・・・」と焦ってくる時もありますが、
それらの思いをエイッと向こうに押しやって、
私にとって宝であるディボーションをする事を選び取ります。
家族の事、教会員の事、友人の事、塾の生徒の事・・・・と、
あまりにも祈る事が多いため、一週間のうちで、
グループに分けてノートに名前を書き記しお祈りしています。
すると、主は不思議な方法で祈りに答えて下さるのです。
その朝、深く主から示されて祈った人から、突然電話があったり、
ばったり買い物先で出会ったり、
ご本人が教会をひょっこり訪れて下さったりといった事がしばしばありました。
もちろん、長い間祈っても祈っても答えが与えられない祈りもたくさんあります。
しかし、主に何かのお考えがあるのだと思い、尋ね続けています。
そして、主を礼拝する事、否、礼拝させて頂く特権がある事の素晴らしさを思います。

「あなたのみことばは、私の上あごに何と甘い事でしょう。
蜜よりも、私の口に甘いのです。」
詩篇119・103

愛もなく、失敗ばかりする私のような貧しいものを生かし、
愛し、待っていて下さる主の御名を崇めます。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。
主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせて下さる。」
詩篇23:1



神様の大きな力と愛/陳 英華

人の一生はとても短いものです。
その短い一生の中で、一人一人苦しい事や辛い事、楽しい事を経験します。
私は17歳の時、将来に対する夢で一杯でした。
我がままで自己中心的で、自信に満ち溢れていました。
自分で何でも出来ると思っていました。
他人の事など目に入りませんでした。
その時は分からないものですが、こういう時が一番危険です。

 イエス様の福音を始めて知った時、すぐに信じ受け入れました。
しかし、少し時間がたつと、神様から離れてしまいました。
その間に、いろいろな事があり、2年間その状態が続きました。

 苦しい事や恥ずかしい事を経験して、そんな自分に絶望し、落ち込み、
自分の力でそこから抜け出そうとして努力をしても出来ませんでした。
その時初めて自分の力では何も出来ない事を知りました。
自信がなくなりました。
全ての夢も消え去りました。
人生の終わりに来たような気持でした。
しかし、人が終わりだと思った時、神様にとってそれは始まりなのです。
イエス様は最初から、一度も私を見放しませんでした。
慈しみ深い父なる神様は、私が帰って来るのをずっと待っていて下さいました。
神様の大きな愛の中で、私は本当の自分を見つけました。
その時心からイエス様を信じました。

ある祈りの集会の時の事です。初めて神様のみわざを見ました。
ある40代くらいの婦人は、イエス様を信じる前、霊媒師をしていました。
しかし、イエス様を信じた時、家にあった全ての偶像を捨てました。
この集会の時、皆が順番に祈っていました。
この婦人の番が来た時、彼女は突然、変な声を出して笑い始めました。
その様子を50代くらいの女性が見て、悪霊の仕業である事を見抜き、
「イエス・キリストの御名によって命じます。悪霊よ、出て行きなさい!」と祈りました。
すると、その人は倒れて息を荒くして、本人の声ではない変な声で、
「私はここに来ても意味がない。もう一度捨てた偶像を家に戻しなさい。」と言いました。
その時、私はその夫人の側にいました。こんな事を見たのは初めてで、とても驚きました。
どうすればいいのか全然分かりませんでした。
私は、神様の助けが必要だと思いました。
そして皆で心を一つにして、その人のためにイエスの御名によって祈りました。
しばらくすると、その婦人は正気に戻りましたが、
先ほどまでの事は全く覚えていませんでした。
何が起こったのか、全然分からない様子でした。
もし、イエス様が共にいて下さらなければ、
私達は何も出来ない事が、この事を通して分かりました。
また、神様の力が、どれほど凄いのかが良く分かりました。
それまでは、神様の力を聞いているだけでしたが、実際にこの目で見たのです。
私は、感謝せずにはいられませんでした
。主の御名を褒め称えずにはいられませんでした。
この全ての栄光を、天のお父様にお返しします。

 毎日の生活の中で、主の愛と力、優しさと憐れみ、
平安と喜びがいつも共にある事を感じています。
 もしあなたが、主イエス様の福音を聞いた事があるなら、どうぞ受け入れて下さい。
何故なら、主イエス様はあなたに代わって、十字架にかかりました。
主イエス・キリストを信じる事は命であり、真理であり、永遠の命への道だからです。